鲁虺日本人文搜索
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日本人文書紀。
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甲申廿二,詔曰:「朕聞:『西土之君もろこしのくにのきみ戒其民曰:「古之葬はぶり者,因高たかき為墓。不封不樹つちつかずきうゑず。棺槨ひつぎ足以朽骨,衣衿きもの足以朽くたす宍而已のみ。故吾營此丘墟をか不食之地いたづらなるところ,欲ほりす使易代之後,不知其所。無藏金、銀しろかね、銅、鐵ねりかね。一もはら以瓦器かはらのうつはもの,合古塗車くるまかた、蒭靈之義ひとかたのことわり。棺漆際會ひまあひめ三過たび,飯含ふくむる無以珠玉たま。無施珠襦たまのこしころも、玉柙たまのはこ。諸愚俗おろかひと所為也。」又曰:「夫それ葬者藏かくす也,欲人之不得見みることえざる也。」』迺者このごろ我民貧絕まづしくともし,專由營つくる墓。爰陳のべ其制,尊卑たかきひきさ使別。夫王みこ以上之墓者,其內長九尺,濶五尺,其外域とのめぐり,方たださよこさ九尋,高五尋,役えよほろ一千人,七日使訖。其葬時帷帳かたびらかきしろ等用白布しろぬの。有轜車きくるま。上臣たかきまへつきみ之墓者,其內長、濶及高,皆准なずらへ於上。其外域方七尋,高三尋ひろ,役五百人,五日使訖。其葬時帷帳等用白布,擔而行之。【蓋此以肩擔輿こし而送之乎。】下臣ひくきまへつきみ之墓者,其內長、濶ひろさ及高,皆准於上。其外域方五尋,高二尋半,役二百五十人,三日使訖。其葬時帷帳等用白布,亦准於上。大仁だいにん、小仁せうにん之墓者,其內長九尺,高、濶各四尺,不封使平たひらかならしめ,役一百人,一日使訖。大禮だいらい以下小智せうち以上之墓者,皆准大仁。役五十人,一日使訖。凡王以下小智以上之墓者,宜用小石ちひさきいし。其帷帳等宜用白布。庶人おほみたから亡時,收埋をさめうづめよ於地。其帷帳等可用麤布あらぬの。一日莫停。凡王以下及至庶民,不得營殯もがりや。凡自畿內及諸國等,宜定一所而使收埋,不得汙穢けがらはし散埋處處。凡人死亡しぬる之時,若經わなき自殉したがひ,或絞くびり人殉,及強殉亡人しにたるひと之馬,或為亡人藏寶たからもの於墓,或為亡人斷髮刺股もも而誄しのひことす。如此舊俗ふるきしわざ,一皆悉斷。【或本云:「無藏金、銀、錦にしき、綾あや、五綵いつくさのしみのきぬ。」又曰:「凡自諸臣及至于民,不得用金、銀。」】縱有違詔犯所禁いさむ者,必罪其族やから。復有見言不見,不見言見,聞言不聞,不聞言聞。都かつて無正語正見,巧詐者たくみにいつはるもの多。復有奴婢欺あざむき主貧困まづしくたしなめる,自託勢家いきほひあるいへ求活。勢家仍強留買とどめかひ,不送本主もとのあるじ者多。復有妻妾めをみな為夫被放之日,經年之後,適とつぐ他恒理つねのことわり。而此前夫さきのをひと三四年後,貪求後夫のちのをひと財物,為己利者甚眾。復有恃たのむ勢之男,浪みだりに要他女而未納際いまだむかへざるあひだ,女自適人,其浪要者嗔いかり求兩家財物たからもの,為己利者甚眾。復有亡夫之婦め,若經十年及二十年,適人為婦,并未嫁之女いまだとつがざるむすめ始適人時,於是妬ねたみ斯夫婦をひとめ,使祓除はらへ多。復有為妻被嫌離者,特由慙愧はぢ所惱なやまさるる,強あながち為事瑕ことさか之婢。【事瑕,此云ことさか居騰作柯。】復有屢しばしば嫌己婦姧かだめ他,好向官司請決ことわり。假使得明三証みつのあかし,而俱顯陳,然後可諮まをすべし。詎いかにぞ生浪訴。復有被役邊畔ほとりのくに之民,事了還鄉之日,忽然得疾,臥死路頭みちのほとり。於是路頭之家乃謂之曰:『何故使人死於余路あがあたり?』因留死者友伴ともがき,強使祓除。由是兄雖臥死しぬ於路,其弟不收者多。復有百姓溺死おぼほれしぬ於河逢者,乃謂之曰:『何故於我使遇溺人?』因留溺者友伴,強使祓除。由是兄雖溺死於河,其弟不救者眾。復有被役之民,路頭炊飯かしきはむ,於是路頭之家乃謂之曰:『何故任情こころのまにまに炊飯余路?』強使祓除。復有百姓就他借甑こしき炊飯,其甑觸物而覆,於是甑主乃使祓除。如是等類,愚俗所染ならへるところ。今悉除斷やめ,勿使復為。復有百姓,臨向まゐくる京日,恐所乘馬疲瘦つかれやせ不行,以布二尋、麻あさ二束送參河みかは、尾張兩國之人,雇令養飼やとひてかはしめ,乃入于京。於還鄉くに日,送鍬すき一口わ。而參河人等不能あたはず養飼,翻令瘦死。若是細馬,即生貪愛をしむ,工たくみ作謾語いつはりこと,言被偷失ぬすまれたり。若是牝馬めうま孕於己家,便使祓除,遂奪其馬。飛聞つてにきく若是。故今立制,凡養馬於路傍國みちのほとりのくに者,將被雇人やとはるるひと,審つばひらかに告村首,【首,長をさ也。】方授詶物おくりもの,其還鄉日,不須更報つくのふ。如致疲損,不合得物。縱違斯詔,將科重罪おもきつみ。罷市司いちのつかさ、要路ぬみのみち津濟渡子つわたりのわたりもり之調賦,給與田地たどころ。凡始畿內及四方國,當農作なりはひ月,早務營田たつくる。不合使喫美物うましもの與酒。宜差清廉使者告のたまへ於畿內。其四方諸國國造等,宜擇善使,依詔催勤もよほしつとめ。」
薄葬令
大阪府南河內郡河南町東山 近飛鳥博物館
近飛鳥博物館特展 大化薄葬令
塗車,埴泥車形。蒭靈,草束人形。并陪葬品也。『禮記』檀弓下:「塗車、芻靈,自古有之。明器之道也。」帷帳,蔽棺之帳。轜車,葬車矣,車載喪屋之疇也。
土師器 甑
甑者,炊飯具是也。
三重縣多氣郡明和町竹川 齋宮歷史博物館
齋宮寮正月食事
美物或指魚、酒。『日本後紀』:「農人喫魚酒,禁制惟久。」
大阪市天王寺區餌差町 大阪府立高津高等學校
大阪府高津高校 高津宮跡碑
蝦蟇行宮,所在未詳。蝦蟇音同川津,蓋近難波堀江。故或云蝦蟇行宮在仁德帝難波高津宮故地。
射 宮中射禮也
『雜令』:凡大射者,正月中旬,親王以下初位以上皆之以射。
三重縣伊勢市宇治館 伊勢皇太神宮 宇治橋
伊勢神宮 宇治橋
惟神,或稱隨神。不矯偽做作,合神之意,順其清明本質行動。折口信夫『高御座』釋惟神云:「神自身、神其物。」神道本質,在於清明。惟神之道,是即神道。
兵庫縣神戶市北區有馬町 湯泉神社
有馬溫湯 湯泉神社境內圖
大己貴命所拓,日本最古名泉。
兵庫縣西宮市山口町下山口 公智神社 孝德天皇行在所址
公智神社 孝德天皇行在所址
武庫行宮,有諸說。或云在武庫川西岸,今寶塚市高司、小林一帶,有御幸道、御所前之名。或云自難波通有馬溫湯之古道,如公智神社參道東側有孝德天皇行在所址。
秋八月庚申朔癸酉十四,詔曰:「原たづねみれば夫天地陰陽めを,不使四時よつのとき相亂。惟此天地,生乎萬物よろづのもの,萬物之內,人是最靈くしひ。最靈之間,聖ひじり為人主。是以聖主ひじり天皇,則のり天御㝢あめのしたをしらしめ,思人獲所,暫不廢胸こころ。而始王之名名みなみな,臣、連、伴造、國造,分其品部しなじなのとものを,別彼名名なな。復以其民品部,交雜まじり使居國縣。遂使父子易姓うぢ,兄弟はらから異宗おや,夫婦更互殊名,一家五分六割。由是爭競之訟あらそひきほふうたへ,盈みち國充みち朝,終不見治,相亂彌盛いよいよさかり。粵ここに以,始於今之御㝢天皇及臣、連等,所有品部,宜悉皆罷,為國家おほやけ民。其假借かり王名為伴造,其襲據より祖名為臣、連,斯等深不悟情,忽聞若是かく所宣,當思:『祖名所借滅きえぬ。』由是預宣あらかじめのべ,使聽知朕所懷おもふところ。王者之兒きみのみこ,相續あひつぎ御㝢,信知時帝ときのきみ與祖皇みおや名,不可見忘於世,而以王名輕かろがろ掛川野かはの呼名。百姓誠可畏焉。凡王者之號將隨日月遠流,祖子みこ之名可共天地長往。如是思故宣之。始於祖子奉仕卿大夫、臣、連、伴造、氏氏うぢうぢ人等,【或本云,名名王民ななのおほみたから。】咸可聽聞。今以汝等使仕狀者,改去舊職もとのつかさ,新設百官,及また著位階くらゐのしな,以官位つかさくらゐ敘。今發遣たてつかはす國司,并彼國造,可以奉聞。去年付於朝集之政者,隨前處分ことわり,以收數をさめかぞふる田,均給於民。勿生彼我それとわれ。凡給田者,其百姓家近接於田,必先於近。如此奉宜。凡調賦者,可收男身之調をのこのみのみつき。凡仕丁者,每五十戶一人,宜觀國國疆堺さかひ,或書ふみ或圖かた持來奉示。國縣之名,來時將定。國國可築堤つつみ地,可穿溝うなて所,可墾はる田間,均給使造。當聞解此所宣。」
九月,遣小德高向博士黑麻呂せうとくたかむくのはかせくろまろ於新羅,【黑麻呂,更名玄理げんり。】而使貢質むかはり,遂罷任那之調。
是月,天皇御蝦蟇行宮かはづのかりみや。【或本云,離宮。】
是歲,越國之鼠,晝夜相連ひるよるあひつらなり,向東移去うつりゆく。
三年,春正月戊子朔壬寅十五,射いくひす於朝廷みかど。
是日,高麗、新羅,並遣まだし使,貢獻調賦。
夏四月丁巳朔壬午廿六,詔曰:「惟神かむながら,【惟神者,謂隨神道かみのみち。亦謂自みづからに有神道也。】我子應治故寄ことよさしき。是以與天地之初,君臨之國きみとしらすくに也。自始治國皇祖はつくにしらししすめみおや之時,天下大同おなじ,都無彼此かれこれ者也。既而頃者このころ始於神名かみのみな、天皇名名,或別わかれて為臣、連之氏,或別為造等みやつこらのしな之色。由是率土くにのうち民心,固かたく執彼此,深生我汝あれいまし,各守名名。又拙弱つたなき臣、連、伴造、國造,以彼それ為姓うぢ,神名、王名きみのみな逐自心おのがこころ之所歸,妄みだりに付前前處處ひとびとところどころ。【前前,猶謂人人ひとびと也。】爰以神名、王名為人賂物まひなひ之故,入他奴婢,穢汙清名きよきな,遂即民心不整,國政難治。是故今者隨在天神あまつかみながら屬可治平之運をさめむくべきよ,使悟斯等,而治國治民,是先是後,今日明日けふあす,次而續詔。然素もとより賴天皇聖化みおもぶけ而習舊俗もとのしわざ之民,未詔之間,必當難待。故始於皇子、群臣及諸もろもろ百姓,將賜庸調ちからつき。」
是歲,壞こほち小郡而營つくる宮。天皇處小郡宮をごほりのみや,而定禮法ゐやののり。其制のり曰:「凡おほよそ有位者,要於寅時とらのとき,南門みなみのみかど之外,左右羅列つらなり,候うかかひ日初出,就庭おほば再拜,乃侍于廳まつりごとどの。若晚參者,不得入侍。臨到午時うまのとき,聽鍾而罷まかれ。其擊鍾吏つかさ者,垂赤巾あかいろのちきり於前。其鍾臺かねのかけもの者,起於中庭おほば。」
工人大山位倭漢直荒田井比羅夫たくみだいせんゐやまとのあやのあたひあらたゐのひらふ,誤穿溝瀆うなて,控引ひき難波,而改穿あらためほり疲勞百姓。爰有上疏ふみたてまつり諫者。天皇詔曰:「妄聽比羅夫所詐,而空穿瀆うなて。朕之過あやまり也。」即日そのひ罷役。
冬十月甲寅朔甲子十一,天皇幸有馬溫湯ありまのゆ。左右大臣ひだりみぎのおほおみ、群卿大夫從焉したがへり。
十二月晦つごもり,天皇還自溫湯,而停武庫行宮むこのかりみや。【武庫,地名也。】
是日,災皇太子宮ひつぎのみこのみや。時人大驚怪おどろきあやしむ。
十一、施行新冠位制
是歲,制七色一十三階ななつのいろのとをあまりみしな之冠。
一曰,織冠おりもののかがふり。有大小二階。以織為之,以繡ぬひもの裁冠之緣もとほり。服色きぬのいろ並用深紫ふかむらさき。
二曰,繡冠ぬひもののかがふり。有大小二階。以繡為之,其冠之緣、服色,並同織冠。
三曰,紫冠むらさきのかがふり。有大小二階。以紫為之つくり,以織裁冠之緣。服色用淺紫あさむらさき。
四曰,錦冠にしきのかがふり。有大小二階。其大錦だいきむ冠,以大伯仙錦だいはくせんのにしき為之,以織裁冠之緣。其小錦せうきむ冠,以小伯仙せうはくせん錦為之,以大伯仙錦裁冠之緣。服色並用真緋あけ。
五曰,青冠あをきかがふり。以青絹あをきぬ為之,有大小二階。其大青冠,以大伯仙錦裁冠之緣。其小青冠,以小伯仙錦裁冠之緣。服色並用紺ふかきはなだ。
六曰,黑冠くろきかがふり。有大小二階。其大黑冠,以車形くるまかた錦裁冠之緣。其小黑冠,以菱形ひしかた錦裁冠之緣。服色並用綠みどり。
七曰,建武けんむ。【初位はじめのくらゐ,又名立身りふしむ。】以黑絹くろきぬ為之,以紺裁たちいれ冠之緣。別ことに有鐙冠つぼかがふり,以黑絹為之つくれり。
其冠之背せ張漆羅うるしぬりのうすはた,以緣與鈿うず異其高下たかさみじかさ,形似於蟬せみ。小錦冠以上之鈿,雜まじへ金、銀為之。大小青冠之鈿,以銀為之。大小黑冠之鈿,以銅為之。建武之冠無鈿也。此冠者,大會おほきわざ、饗客,四月、七月齋をがみ時所著焉。
新羅遣上臣大阿飡金春秋だいあさんこむしゆんしう等,送博士小德高向黑麻呂、小山中中臣連押熊せうせんちうなかとみのむらじおしくま來,獻孔雀くさく一隻、鸚鵡あうむ一隻。仍以春秋為質。春秋美姿顏かほよく,善談咲ほたきごと。
造渟足柵ぬたりのき,置柵戶きのへ。老人等相謂之曰:「數年あまたとせ鼠向東行,此造柵之兆乎。」
四年,春正月壬午朔一,賀正焉。
是夕,天皇幸いでます于難波碕宮なにはのさきのみや。
二月壬子朔一,於三韓みつのからくに遣學問僧ものならふほふし。【三韓,謂高麗、百濟、新羅。】
己未八,阿倍大臣請四眾よくさのおこなひひと於四天王寺してんわうじ,迎佛像ほとけのみかた四驅はしら,使坐于塔內。造靈鷲山りやうじゆせん像,累積かさね鼓つづみ為之。
夏四月辛亥朔一,罷古冠ふるきかがふり。左右大臣猶著古冠。
是歲,新羅遣使貢調。治磐舟柵いはぶねのき以備蝦夷。遂選越與信濃しなの之民,始置柵戶。
五年,春正月丙午朔一,賀正焉。
二月,制つくる冠十九階とをあまりここのしな。一曰,大織だいしよく。二曰,小織せうしよく。三曰,大繡だいしう。四曰,小繡せうしう。五曰,大だい紫し。六曰,小紫せうし。七曰,大花上だいくゑじやう。八曰,大花下だいくゑげ。九曰,小花上せうくゑじやう。十曰,小花下せうくゑげ。十一曰,大山だいせん上じやう。十二曰,大山下だいせんげ。十三曰,小山上せうせんじやう。十四曰,小山下せうせんげ。十五曰,大乙上だいおつじやう。十六曰,大乙下だいおつげ。十七曰,小乙上せうおつじやう。十八曰,小乙下せうおつげ。十九曰,立身。
是月,詔博士高向玄理與釋僧旻ほふしそうみん,置八省やつのすぶるつかさ、百官。
七色十三階冠
灌佛會
每年四月八日例行。
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