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戊午十二,蘇我入鹿獨謀將廢上宮王等うへのみやのみこたち,而立古人大兄ふるひとのおほえ為天皇。于時,有童謠わざうた曰:
岩上いはのへに 小猿米燒こさるこめやく 米こめだにも 食たげて通とほらせ 山羊小父かまししのをぢ
蘇武臣入鹿,深忌上宮王山背大兄等威名いきほひな振於天下,獨謨僭立ひところひたたむ。
是月,茨田池水還清すむ。
六、入鹿襲擊斑鳩宮
十一月丙子朔一,蘇我臣入鹿遣小德巨勢德太臣こせのとこだのおみ、大仁土師娑婆連,掩おそはしむ山背大兄王等於斑鳩いかるが。【或本云,以巨勢德太臣、倭馬飼首やまとのうまかひのおびと為將軍いくさのきみ。】於是,奴やつこ三成與數十舍人とねり,出而拒戰ふせきたたかふ。土師娑婆連中箭而死,軍眾いくさども恐退。軍中之人相謂之曰:「一人當千ひとりひとちなみ,謂三成みなり歟!」
山背大兄仍取馬骨うまのほね,投置內寢よどの,遂率其妃みめ并子弟みうがら等,得間ひとま逃出,隱膽駒山いこまのやま。三輪文屋君みわのふみやのきみ、舍人田目連ためのむらじ及其女,菟田諸石うだのもろし、伊勢阿部堅經いせのあべのかたふ,從焉。巨勢德太臣等燒斑鳩宮,灰はひ中見骨,誤謂王死,解圍かくみ退去。
是由,山背大兄王やましろのおほえのみこ等,四五日間,淹留ひさしくとどまり於山,不得喫飯ものもえまゐのぼらず。三輪文屋君進而勸曰:「請移向ゆき於深草屯倉ふかくさのみやけ,從玆乘馬詣東國あづまのくに,以乳部みぶ為本,興師,還戰。其勝必矣。」山背大兄王等對曰:「如卿所噵いふ,其勝必然かならずしからむ。但吾情冀,十年不役つかはじ百姓。以一身之故ひとつのみのゆゑ,豈煩勞わづらはし萬民?又於後世のちのよ,不欲ほりせじ民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後,方まさに言丈夫哉?夫損すて身固國,不亦丈夫ますらを者歟?」
有人遙見上宮王等於山中,還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼,速發軍旅いくさ,述王所在於高向臣國押たかむくのおみくにおし曰:「速可向山求捉彼王。」國押報曰:「僕やつかれ守天皇宮,不敢外出。」入鹿即將自往。
于時,古人大兄皇子喘息あへき而來問:「向何處?」入鹿具說所由。古人皇子曰:「鼠伏かくれ穴而生,失穴而死。」入鹿由是止行,遣軍將いくさのきみ等,求於膽駒いこま。竟不能覓。
於是,山背大兄王等自山還入斑鳩寺いかるがでら,軍將等即以兵圍寺。於是山背大兄王使三輪文屋君謂軍將等曰:「吾起兵伐入鹿者,其勝定之うつなし。然由一身之故,不欲傷殘やぶりそこなはむ百姓。是以吾之一身,賜於入鹿。」終與子弟、妃妾,一時自經みづからわなき,俱死也。于時五色幡蓋はたきぬがさ,種種伎樂おもしろきこゑ,照灼てりひかり於空,臨垂のぞみたれり於寺。眾人仰觀稱嘆たたへなげき,遂指示さししめす於入鹿。其幡蓋等變為黑雲,由是入鹿不能得あたはず見。
蘇我大臣蝦夷聞山背大兄王等總被亡於入鹿,而嗔罵いかりのり曰:「噫あ!入鹿極甚愚痴はなはだおろか,專行橫暴あしきわざ。儞い之身命いのち,不亦殆あやふい乎。」時人說前謠さきのわざうた之應こたへ曰:「以『岩上に伊波能杯儞』,而喻たとふ上宮。以『小猿古佐屢』,而喻林臣はやしのおみ。【林臣,入鹿也。】以『米燒く渠梅野俱』,而喻燒上宮。以『米だにも渠梅多儞母,食げて通らせ多礙底騰裒囉栖,山羊小父柯麻之之能嗚膩。』而喻山背王之頭髮斑雜毛ふふき似山羊かましし。」又曰:「棄捨其宮,匿深山相しるし也。」
是歲,百濟太子餘豐こにせしむよほう,以蜜蜂房みちはちのす四枚,放養於三輪山みわやま。而終不蕃息うまはらず。
奈良縣生駒郡斑鳩町法隆寺山內
法隆寺東院下層構造 斑鳩宮跡
京都府京都市伏見區西桝屋町 欣浄寺
欣浄寺 深草少將邸宅跡
深草屯倉,『和名抄』:「山城国紀伊郡深草鄉。」今京都伏見區。
奈良縣生駒市生駒山
膽駒山
入鹿襲斑鳩宮,三成拒戰,一騎當千。山背大兄王逃匿膽駒山。三輪文屋進取勝之策,而山背大兄慮民傷而不聽。後山背大兄與其族,俱自經於斑鳩寺。
蜜蜂房
蜜蜂房
扶餘豐璋放飼蜜蜂房之條,乃日本養蜂記載之初出。
日本銀行兌換銀券 百圓 藤原鎌足
藤原鎌足 中臣鎌子
中臣即藤原之先。鎌子亦稱鎌足。
『尋常小學日本歷史』中臣鎌足捧御靴圖
中臣鎌足捧御靴圖
談山神社藏 住吉如慶、具慶合筆「多武峯緣起繪卷」上卷之ニ 談合之圖
多武峯緣起繪卷 談合之圖
鎌足、中大兄,談合多武山中,議策大化改新,後謂談山。
三年,春正月乙亥朔一,以中臣鎌子連なかとみのかまこのむらじ拜神祇伯かむつかさのかみ。再三固辭いなび不就,稱疾やまひ退居三嶋みしま。
于時,輕皇子患腳あしのやまひ不朝,中臣鎌子連曾善於うるはしくありき輕皇子,故詣まゐり彼宮而將侍宿とのゐにはべらむ。輕皇子深識中臣鎌子連之意氣高逸こころばへのたかくすぐれ,容止難犯かたちをかそがたき,乃使寵妃阿倍氏めぐみたまふみめあへし,淨掃別殿ことどの,高鋪新蓐にひしきとね,靡不具つぶさ給,敬重ゐやびあがめたまふ特異。
中臣鎌子連便すなはち感所遇めぐまるる而語舍人曰:「殊奉恩澤みうつくしび,過前所望のぞみ。誰能不使王天下あめのした乎。」【謂宛あて舍人為駈使つかひ也。】舍人便以所語陳まをす於皇子,皇子大悅よろこびたまふ。
中臣鎌子連,為人忠正ただし,有匡濟ただすすくふ心。乃憤蘇我臣入鹿失君臣長幼之序きみやつこらまこのかみおととのついで,挾闚覦うかがふ社稷之權はかりこと。歷試つたひこころみ接於王宗きみたち之中,而求可立功名いたはり哲主さかしききみ。便附心於中大兄,疏然さかり未獲展其幽抱ふかきおもひ。
偶たまさか遇中大兄於法興寺ほふこうじ槻樹之下打毱之侶まりくうるのともがら,而候皮鞋みくつ隨毱脫落,取置掌中たなうら,前跪すすみてひざまづき恭奉。中大兄對跪敬ゐやび執。自玆相善あひむつび,俱述所懷おもふ,既無所匿。復恐他嫌頻接しきりにまじはる,而俱手把黃卷ふみまき,自學周孔しうこう之教於南淵先生みなぶちのせんじやう所。遂於路上,往還かよふ之間,並肩潛圖ひそかにはかり,無不相協あひかなはず。
於是,中臣鎌子連議曰:「謀大事おほきなること者,不如有輔たすけ。請納蘇我倉山田麻呂そがのくらのやまだのまろ長女為妃,而成婚姻むこしひと之昵むつび。然後陳說のべとき,欲與計事。成功いたはり之路,莫近於玆。」中大兄聞而大悅,曲ひばひらかに從所議。
中臣鎌子連即自往媒要訖なかだちむすびをはりぬ。而長女所期之夜ちぎりしよ被偷ぬす於族やから。【族,謂身狹臣むさしのおみ也。】由是倉山田臣憂惶仰臥,不知所為。少女おとひめ怪父憂惶うれへかしこまり,就而問曰:「憂惶何也?」父陳其由。少女曰:「願勿為憂。以我奉進たてまつり,亦復不晚。」父便大悅,遂つひに進其女。奉以赤心きよきこころ,更無所忌いむところ。中臣鎌子連舉佐伯連子麻呂さへきのむらじこまろ葛城稚犬養連網田かづらきのわかいぬかひのむらじあみた,於中大兄曰:「云云しかしか。」
八、預兆與謠歌
三月,鵂鶹いひどよ產子於豐浦大臣大津宅倉おほつのいへのくら。【鵂鶹,茅鴟ぼうし也。】
倭國やまとのくに言:「頃者菟田郡うだのこほり人押坂直おしさかのあたひ,【闕名。】將ゐて一童子欣遊うれしぶ雪上。登菟田山うだのやま,便見紫菌むらさきのたけ挺雪而生。高六寸餘,滿四町許。乃使童子わらは採取,還示鄰家。總言:『不知。』且疑毒物あしきもの。於是押坂直與童子煮而食之。大有氣味かぐはしきあぢはひ。明日往見,都不在焉。押坂直與童子由喫菌羹たけのあつもの,無病而壽いのちながし。」或人云:「蓋俗くにひと不知芝草しさう,而妄みだりに言菌乎。」
夏六月癸卯朔一,大伴馬飼連おほとものうまかひのむらじ獻百合華ゆりのはな。其莖くき長八尺,其本異而末連すゑあへり。
乙巳三,志紀上郡しきのかみのこほり言:「有人於三輪山見猿晝睡ひるねぶる,竊執其臂,不害其身。猿猶合眼ねぶり歌曰:
向峰むかつをに 立たてる夫等せらが 柔手にこでこそ 我わが手てを取とらめ
誰たが裂手さきで 裂手さきでそもや 我わが手取てとらすもや
其人驚怪猿歌,放捨而去。此是經歷數年あまたのとし,上宮王等為蘇我鞍作,圍於膽駒山之兆きざし也。」
戊申六,於劍池つるぎのいけ蓮中,有一莖二萼はなぶさ者。豐浦大臣とゆらのおほおみ妄推曰:「是蘇我臣將來ゆくさき之瑞みづ也。」即以金墨くがねのすみ書,而獻大法興寺丈六佛じやうろくのほとけ。
是月,國內くぬち巫覡等折取枝葉,懸掛かけしで木綿,伺大臣渡橋之時,爭陳神語入微之說。其巫かむなぎ甚多,不可具聽。老人おきな等曰:「移風ときかはらむ之兆也。」
于時,有謠歌わざうた三首。其一曰:
遙遙はろはろに 言ことそ聞きこゆる 島藪原しまのやぶはら
其その二曰:
遠方をちかたの 淺野雉あさののきぎし 響とよもさず 我われは寢ねしかど 人ひとそ響とよもす
其その三曰:
小林をばやしに 我われを引入ひきれて 姧人せしひとの 面おもても知しらず 家いへも知しらずも
鵂鶹 富士花鳥園
鵂鶹。或作休留、𪁪、鵋。
藤原鎌足與中大兄皇子
鎌子所以先依輕【孝德】,而後付中大兄【天智】者,藤原『家傳』云:「然皇子器量,不足與謀大事。更欲擇君。歷見王宗,唯中大兄,雄略英徹,可與撥亂。」
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