鲁虺日本人文搜索
输入关键词:
类目资源:
智虺堂
検索
典故
古語辞典
大辞林
日漢雙解詞典
日本傳統色
utf-8
康熙字典
汉语词典
毒鸡汤
谜语
名言
解梦
谚语
古籍溯源
异体字
大辞海
制度
语言翻译
鲁虺日本人文搜索说明
日本人文書紀。
鲁虺日本人文搜索。
推荐日本人文搜索60个。
級照しなてる 片岡山かたをかやまに 飯いひに飢ゑて 臥こやせる 其田人憐そのたひとあはれ
親無おやなしに 汝生なれなりけめや 刺竹さすたけの 君きみはや無なき 飯いひに飢ゑて 臥こやせる 其田人憐そのたひとあはれ
辛未二,皇太子遣使,令視飢者。使者還來之曰:「飢者既死。」爰皇太子大悲之,則因以葬埋をさめうづましめ於當處そのところ,墓固封つきかため也。
數日之後ひをへて,皇太子召近習者ちかくつかへまつるひと,謂之曰:「先日臥于道飢者,其非凡人ただひと。必真人ひじり也。」遣使令視。於是使者還來之曰:「到於墓所つかどころ而視之,封埋かためうづみ勿動。乃開以見,屍骨かばね既空。唯衣服みけし疊置棺ひつき上。」於是皇太子復返使者,令取其衣みそ,如常且服矣。時人大異之曰:「聖之知聖,其實まこと哉!」逾惶いよいよかしこまる。
二十二年,夏五月五日丙申朔庚子,藥獵也。
六月丁卯朔己卯十三,遣犬上君御田鍬いぬかみのきみみたすき、矢田部造やたべのみやつこ,【闕名。】於大唐。
秋八月,大臣臥病。為大臣而男女をのこをみな并一千人出家。
二十三年,秋九月,犬上君御田鍬、矢田部造,至自大唐。百濟使,則從犬上君而來朝まゐけり。
十一月己丑朔庚寅二,饗あへ百濟客矣。
癸卯十五,高麗僧慧慈歸于國。
二十四年,春正月,桃李ももすもも實之。
三月,掖玖やく人三口歸化。
夏五月,夜句やく人七口來之。
秋七月,亦掖玖人二十口來之。先後并三十人,皆安置於朴井えのゐ。未及還,皆死焉。
秋七月,新羅遣まだし奈末竹世士,貢佛像。
二十五年,夏六月,出雲國いづものくに言:「於神戶郡かむとのこほり有瓜,大如缶ほとき。」
是歲,五穀登之いつつのたなつものみのれり。
二十六年,秋八月癸酉朔一,高麗遣使貢方物くにつもの。因以言:「隋煬帝ずいのやうだい興三十萬眾いくさ攻我,返之為我所破。故貢獻俘虜貞公とりこていこう、普通ふとう二人及鼓吹つづみふえ、弩おほゆみ、拋石いしはじき之類十物,并土物くにつもの、駱駝らくだ一匹。」
是年,遣河邊臣かはへのおみ,【闕名。】於安藝國あぎのくに,令造舶ふね。至山覓舶材ふねのき。便得好材よきき,以名將伐きらむとす。時有人曰:「霹靂木かむときのき也,不可伐。」河邊臣曰:「其雖雷神いかづちのかみ,豈逆皇命きみのみこと耶?」多祭幣帛みてぐら,遣人夫えのたみ令伐。則大雨雷電いかづちなりいなびかり之。爰河邊臣案劍つるぎのたかみとりしばり曰:「雷神無犯人夫,當傷我身。」而仰待之。雖十餘霹靂,不得犯河邊臣。即化少魚いささけきうを,以挾樹枝。即取魚焚之。遂修理つくり其舶。
二十七年,夏四月己亥朔壬寅四,近江國言:「於蒲生河かまふがは有物,其形如人。」
秋七月,攝津國つのくに有漁父あま,沉罟あみ於堀江ほりえ。有物入罟,其形如兒わくご。非魚非人,不知所名。
二十八年,秋八月,掖玖人二口,流來於伊豆嶋いづのしま。
冬十月,以砂礫さざれし葺檜隈陵ひのくまのみさざき上。則域外めぐり積土成山。仍每氏科之おほせ,建大柱おほはしら於土山上。時倭漢やまとのあや坂上直さかのうへのあたひ數柱,勝之太高。故時人號之曰大柱直おほはしらのあたひ也。
十二月庚寅朔一,天有赤氣あかきしるし。長一丈餘,形似雉尾きぎしのを。
是歲,皇太子、嶋大臣しまのおほおみ共議之,錄天皇記すめらみことのふみ及國記くにつふみ,臣、連、伴造、國造、百八十部ももあまりやそとものを并公民おほみたから等本記もとつふみ。
十、聖德太子薨
二十九年,春二月己丑朔癸巳五,半夜,廄戶豐聰耳皇子命うまやとのとよとみみのみこのみこと薨于斑鳩宮。
是時,諸王、諸臣及天下あめのした百姓,悉長老おきな如失愛兒めぐきこ,而鹽酢之味しほすのあぢはひ在口不嘗。少幼わかき者如亡慈うつくしび父母,以哭泣之聲滿於行路みち。乃耕夫止耜たかへすをのこすきをやみ,舂女不杵いねつくをみなきねおとせず。皆曰:「日月失輝ひかり,天地あめつち既崩!自今以後のち,誰恃たのまむ哉?」
是月,葬上宮太子於磯長陵しながのみさざき。
當是時,高麗僧慧慈聞上宮皇太子薨,以大悲之,為皇太子,請僧而設齋。仍親說とく經之日,誓願曰:「於日本國有聖人ひじり,曰上宮豐聰耳皇子。固まことに天攸縱ゆるされたり,以玄はるかなる聖之德いきほひ,生あれ日本之國。苞貫つつみぬき三統,纂つぎ先聖之宏猷おほきなるのり,恭敬三寶,救黎元おほみたから之厄,是實大聖也。今太子既薨之,我雖異國あたしくに,心在斷金うるはしき。其獨生之,有何益しるし矣?我以來年こむとし二月五日必死みまからむ。因以遇上宮太子於淨土じやうど,以共化わたさむ眾生。」於是,慧慈當于期日ちぎりしひ而死之。是以時人之彼此共言:「其獨非上宮太子之聖,慧慈亦聖也。」
是歲,新羅遣奈末伊彌買なまいみばい朝貢。仍以表書ふみをたてまつり奏使旨つかひのむね。凡新羅上表,蓋始起于此時歟。
三十一年,秋七月,新羅遣大使奈末智洗爾なまちせんに,任那遣達率奈末智だちそちなまち,並來朝。仍貢佛像一具及金塔こがねのたふ并舍利,且大觀頂幡くわんぢやうのはた一具、小幡十二條。即佛像居於葛野秦寺かづののうづまさでら。以餘舍利、金塔、觀頂幡等,皆納于四天王寺してんわうじ。
是時,大唐學問者ものならひひと僧惠齊ゑさい、惠光ゑくわう及醫くすし惠日、福因等,並從智洗爾等來之。於是,惠日ゑにち等共奏聞曰:「留于唐國學者ならひひと,皆學以成業みち。應喚めすべし。且其大唐國者,法式のり備定珍國めづらしきくに也。常須達つねにかよふべし。」
大阪府太子町太子 叡福寺北古墳 用明天皇第二皇子 聖德太子磯長墓
推古帝太子 聖德太子磯長墓
日本銀行券紙幣一萬圓札 聖德太子
聖德太子肖像
四天王寺 浪速名所圖屏風
朝鮮半島古國圖
奈良縣高市郡明日香村島庄 石舞台古墳
石舞台古墳
傳蘇我大臣馬子桃原墓,諸說多有。或云,按石種、築年,蓋蘇我稻目墓乎。或云石室壁上刻有「馬子墓」三字。古墳形式以封土既崩而不詳,有方墳、上圓下方墳、下方八角墳等說。亦云封土非自然崩落,蓋科蘇我氏之罰乎。
大阪府大阪市中央區森之宮中央 鵲森宮 森之宮神社
鵲森宮 森之宮神社
推古帝六年,難波吉士磐至自新羅,獻鵲二隻。。傳所俾養難波社之森,即此處矣。
是歲,新羅伐うつ任那。任那附新羅。
於是天皇將討新羅,謀及大臣,詢とひ于群卿。田中臣たなかのおみ對曰:「不可急討にはかにうつ。先察狀,以知逆したがはぬ,後擊之不晚也。請試遣使,覩其消息。」中臣連國なかとみのむらじくに曰:「任那元是我內官家うちつみやけ,今新羅人伐而有之。請戒戎旅いくさ,征伐新羅,以取任那附百濟。寧いかにぞ非益有于新羅乎!」田中臣曰:「不然。百濟是多反覆かへすこと之國,道路みち之間尚詐之あざむく,凡彼所請皆非之よくもあらず。故不可附百濟。」則不果はたさず征焉。
爰遣吉士磐金於新羅,遣吉士倉下きしのくらじ於任那,令問任那之事。時新羅國主遣八大夫やたりのまへつきみたち,啟新羅國事於磐金,且啟任那國事於倉下。因約ちぎり曰:「任那小國,天皇附庸ほどすかのくに。何新羅輙たやすく有之?隨常定內官家,願無煩わづらふ矣。」則遣奈末智洗遲なまちせんぢ副於吉士磐金,復以任那人達率奈末遲だちそちなまぢ副於吉士倉下,仍貢兩國之調。
然磐金等未及于還,即年以大德境部臣雄摩侶さかひべのおみをまろ、小德中臣連國為大將軍,以小德河邊臣禰受かはへのおみねず、小德物部依網連乙等もののべのよさみのむらじおと、小德波多臣廣庭はたのおみひろには、小德近江腳身臣飯蓋あふみのあなむのおみいひふた、小德平群臣宇志へぐりのおみうし、小德大伴連、【闕名。】小德大宅臣軍おほやけのおみいくさ,為副將軍,率數萬眾,以征討新羅。
時磐金等共會於津つ,將發船以候風波かぜなみ。於是,船師ふないくさ滿海多至,兩國使人望瞻のぞみ之愕然かしこまり,乃還留焉。更代堪遲大舍たんぢたさ,為任那調使而貢上。於是,磐金等相謂之曰:「是軍起之,既違前期。是以任那之事,今亦不成矣。」則發船ふなだち而渡之。
唯將軍等始到任那而議之,欲襲新羅。於是,新羅國主聞軍多至,而豫慴あらかじめおぢ之請服。時將軍等共議以上表之。天皇聽ゆるし矣。
冬十一月,磐金、倉下等至自新羅。時大臣問其狀あるかたち。對曰:「新羅奉命,以驚懼之。則並差專使たうめづかひ,因以貢兩國之調。然見船師至,而朝貢使人みつきのつかひ更還耳のみ。但調猶貢上。」爰大臣曰:「悔乎くやしきかも,早遣師矣。」時人曰:「是軍事いくさごと者,境部臣、阿曇連あづみのむらじ,先多得新羅幣物まひなひ之故,又勸大臣。是以未待使旨つかひのむね,而早征伐耳。」
初磐金等渡新羅之日,比及津,莊船かざりぶね一艘迎於海浦わたのうら。磐金問之曰:「是船者何國迎船むかへぶね?」對曰:「新羅船也。」磐金亦曰:「曷いかにぞ無任那之迎船?」即時そのとき更為任那加くはふ一船。其新羅以迎船二艘,始于是時歟か。
自春至秋,霖雨大水ながめにしておほみづ,五穀不登焉。
十二、統制寺院、僧尼
三十二年,夏四月丙午朔戊申三,有一僧,執斧をの毆祖父おほぢ。
時天皇聞之,召大臣,詔之曰:「夫出家者頓ひたぶる歸三寶,具懷戒法いむことののり。何無懺忌くいいむ,輙犯惡逆?今朕聞:『有僧以毆祖父。』故悉聚諸寺僧尼,以推問かむがへとへ之。若事實者,重罪之!」
於是集諸僧尼而推之。則惡逆あくぎゃく僧及諸僧尼,並將罪。於是,百濟觀勒僧くわんろくほふし表上以言:「夫佛法ほとけのみのり自西國てんぢく至于漢もろこし,經三百歲,乃傳之至於百濟國,而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲さかしき,而貢上佛像及內典,未滿百歲。故當今時,以僧尼未習法律のり,輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼かしこまり,以不知所如せむすべしらず。仰願其除惡逆者以外僧尼,悉赦而勿罪。是大功德のりのこと也。」天皇乃聽之。
戊午十三,詔曰:「夫道人おこなひびと尚犯法,何以誨俗人ただひと?故自今已後のち,任僧正そうじやう、僧都そうづ,仍應檢校かむがふ僧尼。」
壬戌十七,以觀勒僧為僧正,以鞍部德積くらつくりのとくしやく為僧都。
分页:
首页
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
上一页
下一页
尾页