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 即日,以阿曇連,【闕名。】為法頭ほふづ。  秋九月甲戌朔丙子三,校寺及僧尼,具錄其寺所造之緣つくれるえに,亦僧尼入道おこなふ之緣及度いへです之年、月、日也。當是時,有寺四十六所ところ,僧八百十六人,尼五百六十九人,并一千三百八十五人たり。 滋賀縣東近江市百濟寺町 天台宗釋迦山百濟寺
百濟寺參道 滋賀縣東近江市百濟寺町 天台宗釋迦山百濟寺 百濟寺本堂
傳聖德太子所創,而為百濟僧慧聰、道欣、觀勒等之故居。 奈良縣御所市森脇字角田 葛城一言主神社 葛城縣
天皇、朝庭所領地者為縣,縣主授命轄之。『延喜式』祈年祭祝詞有「葛木縣」云云。蓋葛上、葛下郡之域,今奈良御所、大和高田、香芝、葛城、北葛城一帶。  冬十月癸卯朔一,大臣遣阿曇連、【闕名。】阿倍臣摩侶あへのおみまろ二臣,令奏于天皇曰:「葛城縣かづらきのあがた者,元臣やつかれ之本居うぶすな也。故因其縣為姓名。是以冀之常得其縣,以欲為臣之封縣よさせるあがた。」  於是,天皇詔曰:「今朕則自蘇何そが出之,大臣亦為朕舅をぢ也。故大臣之言,夜よひ言矣夜不明あかさず,日あした言矣日不晚くらさず,何辭いづれのこと不用。然今朕之世,頓にはかに失是縣。後君のちのきみ曰:『愚痴婦人おろかにかたくなしきめのこ臨天下,以頓亡其縣!』豈獨朕不賢をさなき耶?大臣亦不忠つたなく。是後葉之惡名のちのよのあしきな。」則不聽。
 三十三年,春正月壬申朔戊寅七,高麗王貢僧惠灌ゑくわん。仍任めす僧正。 十四、蘇我馬子薨  三十四年,春正月,桃李華之はなさけり。
 三月,寒以霜降しもふる。  夏五月戊子朔丁未廿,大臣薨。仍葬于桃原墓ももはらのはか。大臣則稻目宿禰いなめのすくね之子也。性ひととなり有武略たけきたばかり,亦有辨才わきわきしこと。以恭敬三寶,家於飛鳥河あすかがは之傍。乃庭中開小池,仍興小嶋ちひさきしま於池中。故時人曰嶋大臣しまのおほおみ。  六月,雪也ゆきふれり。
 是歲,自三月至七月,霖雨。天下大飢之うう。老おきな者噉くらひ草根而死于道垂,幼者いとけなき含乳ちち以母子ははこ共死。又強盜竊盜ぬすびと,並大起之,不可止。  三十五年,春二月,陸奧國みちのくのくに有狢むじな化人以歌之。  夏五月,有蠅はへ聚集。其凝累かさなる十丈之,浮虛おほぞら以越信濃坂しなののさか。鳴音如雷,則東至上野國かみつけのくに而自散。
奈良縣明日香村島庄字池田遺跡方形池 島庄遺跡 方形池 傳蘇我馬子邸庭池跡,然未見小嶋形跡。位在石舞台古墳東北方。
群馬縣安中市松井田町、長野縣北佐久郡輕井澤町交界 碓冰峠 ※信濃坂所在有二說,一為信濃、上野堺碓冰峠,一為信濃、美濃堺神坂峠。按文云東至上野國,則蓋碓冰峠是也。 信濃坂 碓冰峠 奈良縣橿原市五條野町植山 植山古墳
植山古墳 奈良縣橿原市五條野町植山 植山古墳 植山古墳西側 推古帝陵比定地
推古天皇原與竹田皇子合葬,後遷河內磯長山田陵。『古事記』云:「御陵在大野岡上,後遷科長大陵也。」『延喜式』諸陵云:「磯長山田陵。小治田宮御宇推古天皇。在河內國石川郡,兆域東西二町,南北二町,陵戶一烟,守戶四烟。」合葬陵所在,諸說紛紜,有植山古墳、山田高塚古墳、高松古墳等說。又植山古墳傳其西側為推古陵,東側為竹田皇子陵。  三十六年,春二月戊寅朔甲辰廿七,天皇臥病みやまひしたまふ。  三月丁未朔戊申二,日有蝕盡はえつきたる之。
 壬子六,天皇病甚之,不可諱いむべからず。  則召田村皇子たむらのみこ,謂之曰:「昇天位たかみくら而經綸鴻基あまつひつぎ,馭萬機よろづのまつりごと以亭育やしなふ黎元,本非輙言たやすくいふもの,恒之所重。故汝慎以察之あきらかにせよ,不可輙言。」  即日,召山背大兄やましろのおほえ,教之曰:「汝肝稚之きもわかし。若雖心望,而勿諠言とよき。必待群言まへつきみたちのこと以宜從。」
 癸丑七,天皇崩之。【時年七十五。】即殯於南庭。  夏四月壬午朔辛卯十,雹零あられふる。大如桃子もものみ。  壬辰十一,雹零。大如李子すもものみ。
 自春至夏,旱之ひでり。  秋九月己巳朔戊子廿,始起天皇喪禮みものゐや。是時群臣各誄於殯宮もがりのみや。  先是,天皇遺詔のちのみことのりす於群臣曰:「比年としごろ五穀不登,百姓大飢,其為朕興たて陵以勿厚葬あつくはぶる。便すなはち宜葬于竹田皇子之陵たけだのみこのみさざき。」
 壬辰廿四,葬竹田皇子之陵。 日本書紀卷廿二 終 【久遠の絆】【卷廿一】【卷廿三】【再臨詔】
日本書紀 卷廿三 舒明紀 息長足日廣額天皇おきながたらしひひろぬかのすめらみこと 舒明天皇じよめいてんわう 一、推演先帝遺言,朝廷不和
 息長足日廣額天皇おきながたらしひひろぬかのすめらみこと,渟中倉太珠敷ぬなくらのふとたましき天皇孫,彥人大兄皇子ひこひとのおほえのみこ之子也。母曰糠手姬皇女ぬかでひめのみこ。  豐御食炊屋姬とよみけかしきやひめ天皇二十九年,皇太子豐聰耳尊とよとみみのみこと薨,而未立皇太子ひつぎのみこ。  以三十六年,三月,天皇崩かむあがり。
 九月,葬禮みはぶりのゐや畢之。嗣位ひつぎのくらゐ未定。  當是時,蘇我蝦夷臣そがのえみしのおみ為大臣おほおみ,獨欲定嗣位,顧畏群臣まへつきみたち不從,則與阿倍麻呂臣あへのまろのおみ議,而聚群臣,饗あへす於大臣家。食訖將散,大臣令阿倍臣あへのおみ,語群臣曰:「今天皇既崩無嗣みつぎなし。若急すみやけく不計,畏有亂みだれ乎。今以詎王いづれのみこ為嗣。天皇臥病みやまひ之日,詔田村皇子たむらのみこ曰:『天下大任おほきなるよさし,本非輙言たやすくいふもの。爾田村皇子,慎以察之あきらかにせよ,不可緩おこたるべからず。』次詔山背大兄王やましろのおほえのみこ曰:『汝獨莫諠讙ひとりなとよきそ。必從群言,慎以勿違たがふ。』則是天皇遺言のちのおほみこと焉。今,誰為天皇?」  時群臣嘿之もだし無答。亦問之。非答。強且問之。於是,大伴鯨連おほとものくぢらのむらじ進曰:「既從天皇遺命耳,更不可待群言。」阿倍臣則問曰:「何謂也?開其意こころ。」對曰:「天皇曷いかに思歟,詔田村皇子,曰:『天下あめのした大任也,不可緩。』因此而言,皇位きみのみくらゐ既定。誰人異言ことなることをさむ?」時采女臣摩禮志うねめのおみまれし、高向臣宇摩たかむくのおみうま、中臣連彌氣なかとみのむらじみけ、難波吉士身刺なにはのきしむざし,四臣曰:「隨大伴連言,更無異。」許勢臣大摩呂こせのおみおほまろ、佐伯連東人さへきのむらじあづまひと、紀臣鹽手きのおみしほて,三人進曰:「山背大兄王,是宜為天皇。」唯蘇我倉摩呂臣そがのくらまろのおみ,【更名雄當をまさ。】獨曰:「臣也當時ただいま不得便言たやすくまをす。更思之後啟まをさむ。」爰大臣知群臣不和あまなはず,而不能成事,退之まかりぬ。
 先是,大臣獨問境部摩理勢臣さかひべのまりせのおみ曰:「今天皇崩,無嗣。誰為天皇?」對曰:「舉あげ山背大兄為天皇。」 天皇、蘇我家系譜 按山背大兄、田村皇子,各為聖德太子、押坂彥人大兄皇子之子,并有角逐天位之格。亦知蘇我氏深入皇室權力中心之態。
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