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冬十月,皇太子居斑鳩宮いかるがのみや。
十四年,夏四月乙酉朔壬辰八,銅、繡丈六佛像ぢやうろくのほとけのみかた並造竟。
是日也,丈六銅像坐於元興寺ぐわんごうじ金堂。時佛像高於金堂戶こむだうのと,以不得納堂。於是,諸工人たくみ等議曰:「破こほち堂戶而納之。」然鞍作鳥之秀工すぐれたるたくみ,不壞戶,得入堂。
即日,設齋をがみす。於是,集會人眾,不可勝數あげてかぞふ。
自是年初,每寺四月八日やかのひ、七月十五日もちのひ設齋。
五月甲寅朔戊午五,敕鞍作鳥曰:「朕欲興隆內典うちつのり,方將建佛剎ぶつせつ,肇求舍利。時汝祖父司馬達等しまのだちと便獻舍利。又於國無僧尼ほふしあま。於是汝父多須那たすな為橘豐日用明天皇,出家恭敬つつしみゐやまふ佛法。又汝姨嶋女しまめ初出家いへです,為諸尼導者みちびき,以修行釋教ほとけのみのり。今朕為造丈六佛,以求好佛像。汝之所獻佛本ためし,則合朕心。又造佛像既訖,不得入堂。諸工人不能計,以將まさに破堂戶。然汝不破戶而得入。此皆汝之功いさをし也。」即賜大仁位くらゐ,因以給近江國坂田郡水田あふみのくにのさかたのこほりのた二十町焉。
鳥以此田,為天皇作金剛寺こむがうじ,是今謂南淵坂田尼寺みなみぶちのさかたのあまでら。
秋七月,天皇請皇太子,令講勝鬘經しようまんぎやう。三日說竟之ときをへつ。
是歲,皇太子亦講法華經ほふくゑきやう於岡本宮をかもとのみや。天皇大喜之,播磨國水田百町,施于皇太子。因以納于斑鳩寺いかるがでら。
十五年,春二月庚辰朔一,定壬生部みぶべ。
戊子九,詔曰:「朕聞之,曩むかし我皇祖みおや天皇等宰をさめ世也,跼せかがまり天蹐ぬきあしにふみ地,敦禮神祇あまつかみくにつかみ,周祠山川,幽はるかに通乾坤あめつち。是以陰陽開和ふゆなつひらけあまなふ,造化共調なしいづることともにととのほる。今當朕世,祭祀いはひまつる神祇,豈有怠乎?故群臣為竭つくし心,宜拜神祇!」
甲午十五,皇太子及大臣,率百寮,以祭拜いはひゐやぶ神祇。
奈良縣高市郡明日香村飛鳥 飛鳥寺 本堂 釋迦如來像 飛鳥大佛
元興【飛鳥】寺本堂 丈六佛像
飛鳥大佛,日本現存最古佛像。與規模最大之奈良大佛,鑄工最精之鎌倉大佛並稱三大佛。
奈良縣明日香村大字阪田
坂田寺跡 坂田金剛寺址碑
鞍作鳥以近江國坂田郡水田為天皇作金剛寺,即南淵坂田尼寺。
聖德太子繪傳 聖德太子 勝鬘經講讚圖
聖德太子繪傳 勝鬘經講讚圖
大阪市住吉區庭井町 庭井2號公園內 依網池址碑
依網池址
按『崇神紀』六十二年既云:「造依網池。」『應神紀』亦有和歌述之。而以池址之遺物鑒定年代,蓋為推古朝時所營。或造于崇神朝,而脩于推古朝乎。
大阪府南河內郡太子町
太子町 道祖小野妹子墓
夫小野妹子墓有大阪府南河內郡太子町、滋賀縣小野妹子公園唐臼山古墳二所。而攷故實,後者為妹子墓之說,未見於江戶時代之前。
隋煬帝 楊廣
隋煬帝 楊廣
本段唐帝、皇帝,皆指隋煬帝。又倭皇云云,蓋為史人改竄。時中國國書,依國勢高低,有「皇帝敬問某」與「皇帝問某王」等,此為後者之儔。又通事者,譯語是也。
熊本縣葦北郡
肥後國葦北津
水臼
碾磑
碾磑者,水臼是也。
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平安京朝堂院模式圖
十八年十月條:「共引以自南門入之。」所謂南門,即會昌門。
秋七月戊申朔庚戌三,大禮小野臣妹子をののおみいもこ遣於大唐もろこし。以鞍作福利くらつくりのふくり為通事をさ。
是歲冬,於倭國やまとのくに作高市池たけちのいけ、藤原池ふぢはらのいけ、肩岡池かたをかのいけ、菅原池すがはらのいけ。山背國やましろのくに掘大溝おほうなて於栗隈くるくま,且河內國かふちのくに作戶苅池とかりのいけ、依網池よさみのいけ。亦每國置屯倉みやけ。
十六年,夏四月,小野臣妹子至自大唐。唐國もろこしのくに號妹子臣曰蘇因高そいんかう。
即大唐使人裴世清はいせいせい、下客しもべ十二人,從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成なにはのきしをなり,召大唐客もろこしのまらひと裴世清等。為唐客,更造新館にひしきむろつみ於難波高麗館こまのむろつみ之上。
六月壬寅朔丙辰十五,客等泊于難波津なにはのつ。
是日,以飾船かざりぶね三十艘,迎客等于江口えぐち,安置はべらしむ新館。於是,以中臣宮地連烏磨呂なかとみのみやどころのむらじをまろ、大河內直おほしかふちのあたひ糠手ぬかで、船史王平ふねのふびとわうへい為掌客まらひとのつかさ。
爰妹子臣奏之曰:「臣參還之時まゐくるとき,唐帝もろこしのみかど以書授臣。然經過百濟國之日,百濟人探以掠取かすみとれり。是以不得上。」於是群臣議之曰:「夫使人つかひたるひと雖死之,不失旨むね。是使矣,何怠之失大國もろこし之書哉?」則坐流刑ながすつみ。時天皇敕之曰:「妹子雖有失書之罪,輙たやすく不可罪。其大國客等聞之,亦不良。」乃赦ゆるし之不坐也つみしたまはず。
秋八月辛丑朔癸卯三,唐客入京みやこ。
是日,遣飾騎かざりうま七十五匹,而迎唐客於海石榴市つばきち衢。額田部連比羅夫ぬかたべのむらじひらぶ以告禮辭ゐやのこと焉。
壬子十二,召唐客於朝廷みかど,令奏使旨。時阿倍鳥臣あへのとりのおみ、物部依網連抱もののべのよさみのむらじ,二人為客之導者也。
於是大唐之國信物くにつかひのもの置於庭中。時使主おみ裴世清親持書,兩度再拜,言上まをし使旨而立之。其書曰:「皇帝きみ問倭皇やまとのすめらみこと。使人長吏ちやうり大禮蘇因高等至具懷おもひ。朕欽よろこび承寶命たからのみこと,臨仰區宇あめのした。思弘德化いきほひ,覃およぼし被含靈よろづのもの。愛育之情めぐみやしなふこころ,無隔遐邇とほくちかき。知皇介居海表わたのほか,撫寧民庶おほみたから,境內くにのうち安樂,風俗くにのしわざ融和,深氣こころばへ至誠,遠脩朝貢。丹款ねむごろにまこと之美,朕有嘉焉よみする。稍暄やくやくあたたかなり,比このころ如常也。故遣鴻臚寺こうろじ掌客裴世清等,旨宣しめしのべ往意,并送物如別。」時阿倍臣出進,以受其書而進行。大伴囓連おほとものくひのむらじ迎出承書,置於大門前机つくゑ上而奏之,事畢而退焉。
是時,皇子、諸王、諸臣,悉以金髻華こがねのうづ著頭。亦衣服よそひ皆用錦にしき、紫むらさき、繡、織おりもの及五色綾羅いついろのあやうすはた。【一云,服色きぬのいろ皆用冠かがふり色。】
丙辰十六,饗唐客等於朝みかど。
九月辛未朔乙亥五,饗客等於難波大郡おほこほり。
辛巳十一,唐客裴世清罷歸まかりかへりぬ。則復以小野妹子臣為大使おほつかひ,吉士雄成為小使そひつかひ,福利為通事,副于唐客而遣之。
爰天皇聘唐帝,其辭曰:「東天皇やまとのすめらみこと敬白西皇帝もろこしのきみ。使人鴻臚寺掌客しやうかく裴世清等至,久憶ひさしきおもひ方解。季秋薄冷やうやくすずし,尊何如?想清悆おだひかならむ。此即如常。今遣大禮蘇因高、大禮乎那利をなり等往。謹白,不具つぶさならず。」
是時遣於唐國學生ふむやわらは,倭漢直福因やまとのあやのあたひふくいん、奈羅譯語惠明ならのをさゑみやう、高向漢人玄理たかむくのあやひとげんり、新漢人大國いまきのあやひとおほくに。學問僧ものならふほふし,新漢人日文にちもん、南淵漢人請安みなみぶちのあやひとしやうあん、志賀漢人慧隱しがのあやひとゑおん、新漢人廣濟くわうさい等,并八人也。
是歲,新羅人多化來まゐおもぶく。
十七年,夏四月丁酉朔庚子四,筑紫大宰つくしのおほみこともちのつかさ奏上言:「百濟僧道欣だうこん、惠彌ゑみ為首,一十人,俗しろきぬ七十五人,泊于肥後國葦北津ひのみちのしりのくにのあしきたにつ。」
是時,遣難波吉士德摩呂なにはのきしとくまろ、船史龍ふねのふびとたつ,以問之曰:「何來也?」對曰:「百濟王命以遣於吳國くれのくに。其國有亂みだれ,不得入。更返於本鄉もとのくに。忽逢暴風あらし,漂蕩海中わたなか。然有大幸,而泊于聖帝みかど之邊境ほとり。以歡喜。」
五月丁卯朔壬午十六,德摩呂等復奏之かへりことまをす。則返德摩呂、龍二人,而副百濟人等,送本國もとのくに。至于對馬,以道人おこなひびと等十一,皆請之欲留。乃上表ふみたてまつり而留之。因令住元興寺。
秋九月,小野臣妹子至まゐたる自大唐。唯通事福利不來。
十八年,春三月,高麗王貢上僧曇徵ほふしどむてう、法定ほふぢやう。曇徵知五經ごきゃう,且能作彩色しみのもののいろ及紙墨かみすみ,并造碾磑。蓋造碾磑みづうす,始于是時歟。
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