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物部守屋墓、顯彰碑
菊池容齋『前賢故實』捕鳥部萬
前賢故實 捕鳥部萬
奈良縣櫻井市大字倉橋※崇峻天皇陵旁
崇峻天皇 倉梯柴垣宮跡
在金福寺。然以腹地過小,存疑。
物部守屋大連資人捕鳥部萬つかひびとととりべのよろづ,【萬,名也。】將一百人,守難波なには宅。而聞大連滅ほろびぬ,騎馬夜逃向茅渟縣ちぬのあがた有真香邑ありまかむら。仍過婦宅,而遂匿山。朝庭みかど議曰:「萬懷逆心さかしまなるこころ,故隱此山中。早須滅族,可不怠歟!」
萬衣裳弊垢きものやれあかつき,形色憔悴かほかしけ,持弓帶劍,獨自出來。有司つかさ遣數百衛士圍萬。萬即驚匿篁藂たかむら,以繩繫竹,引動令他惑己所入。衛士等被詐あざむかれ指搖竹馳言:「萬在此!」萬即發箭,一無不中。衛士等恐不敢近。萬便弛はづし弓挾腋,向山走去。衛士等即夾河追射,皆不能あたはず中。
於是,有一衛士,疾馳先さきだつ萬,而伏河側,擬射さしまかなきいる中膝。萬即拔箭,張弓發箭,伏地而號曰:「萬為天皇之楯みたて,將效其勇いさみ,而不推問かむがへとひ。翻致逼迫せめ,於此窮矣。可共語者,來!願聞殺虜之際ころしとらふることのきわだめ。」衛士等競馳きほひはせ射萬,萬便拂捍はらひふせき飛矢,殺三十餘人。仍以持劍,三截たちきり其弓,還屈其劍,投河水裏,別以刀子かたな,刺頸死焉しぬ。
河內國司かふちのくにのみこともち以萬死狀,牒上まをしあぐ朝庭。朝庭下符おしてふみ稱:「斬之八段,散梟ちちしくしさせ八國。」河內國司即依符旨むね,臨斬梟時,雷鳴大雨いかづちなりひさめふる。
爰有萬養白犬しろきいぬ,俯仰ふしあふぎ迴吠於其屍側ほとり。遂嚙舉くひあげ頭,取置古冢ふるはか,橫臥枕側まくらのかたはら,飢死うゑしぬ於前。河內國司尤異とがめあやしび其犬,牒上朝庭。朝庭哀不忍聽,下符稱曰:「此犬,世所希聞めづらしき。可觀しめすべし於後。須使萬族作墓而葬。」由是萬族雙起ならべつくり墓於有真香邑,葬萬與犬。
河內國言:「於餌香川原ゑがのかはら,有被斬人。計將數百。頭身むくろ既爛,姓字うぢな難知。但以衣色,收取其身者。爰有櫻井田部連膽渟さくらゐのたべのむらじいぬ所養之犬。嚙續身頭,伏側固守,使收已至すでにをはり,乃起行之。」
八月癸卯朔甲辰二,炊屋姬尊推古與群臣,勸進天皇,即天皇之位あまつひつぎしろしめす。
以蘇我馬子宿禰為大臣,如故。卿大夫まへつきみたち之位亦如故。
是月,宮於倉梯くらはし。
元年,春三月,立大伴糠手連おほとものぬかでのむらじ女小手子こてこ為妃。
是生,蜂子皇子はちのこのみこ與錦代皇女にしきてのひめみこ。
四、創建法興寺
是歲,百濟國遣使并僧惠總ほふしゑそう、令斤りやうこん、惠寔ゑしよく等,獻佛舍利ほとけしやり。百濟國遣恩率首信おんそちしゅしん、德率蓋文とくそちかふもん、那率福富味身なそちふくふみしん等,進調并獻佛舍利,僧聆照律師りやうせうりつし、令威りやうゐ、惠眾ゑしゆ、惠宿ゑしゆく、道嚴だうごん、令開りやうけ等,寺工太良未太てらたくみたらみた、文賈古子もんけこし,鑪盤博士將德白昧淳ろばんはかせしやうとくはくまいじゆん,瓦博士麻奈父奴かはらはかせまなふぬ、楊貴文やうくゐもん、陵貴文りようくゐもん、昔麻帝彌しやくまたいみ,畫工白加ゑかきびやくか。
蘇我馬子宿禰請百濟僧等,問受戒之法。以善信尼ぜんしんのあま等,付百濟國使恩率首信等,發遣學問ものならひ。
壞飛鳥衣縫造あすかのきぬぬひのみやつこ祖樹葉このは之家,始作法興寺ほふこうじ。此地名飛鳥真神原あすかのまかみのはら,亦名飛鳥苫田あすかのとまた。是年,太歲戊申。
二年,秋七月壬辰朔一,遣近江臣滿あふみのおみみつ於東山道やまのみち使,觀蝦夷えみし國境さかひ。遣宍人臣鴈ししひとのおみかり於東海道うみつみち使,觀東方ひむがしのかた濱海諸國くにぐに境。遣阿倍臣於北陸道くぬがのみち使,觀越こし等諸國境。
三年,春三月,學問尼ものならひのあま善信等,自百濟還,住櫻井寺さくらゐでら。
冬十月,入山取寺材てらのき。
是歲,度尼いへでせるあま,大伴狹手彥連おほとものさでひこのむらじ女善德ぜんとく、大伴狛夫人おほとものこまのいろえ、新羅媛善妙しらきひめぜんめう、百濟媛妙光くだらひめめうくわう,又漢人善聰あやひとぜんそう、善通ぜんつう、妙德めうとく、法定照ほふぢやうせう、善智聰ぜんちそう、善智惠ぜんちゑ、善光ぜんくわう等。鞍部司馬達等子多須奈,同時出家,名曰德齊法師とくさいほふし。
四年,夏四月壬子朔甲子十三,葬譯語田敏達天皇於磯長陵しながのみさざき。是其妣皇后ははのきさき所葬之陵也。
秋八月庚戌朔一,天皇詔群臣曰:「朕思欲おもふ建任那みまな,卿等いましたち何如?」群臣奏言:「可建任那官家みやけ,皆同陛下所詔みことのり。」
冬十一月己卯朔壬午四,差紀男麻呂宿禰、巨勢猿臣こせのさるのおみ、大伴囓連おほとものくひのむらじ、葛城烏奈良臣かづらきのをならのおみ為大將軍おほきいくさのきみ,率氏氏うぢうぢ臣、連為裨將つぎのいくさのきみ,部隊たむろのをさ領二萬餘軍,出居筑紫つくし。遣吉士金きしのかね於新羅,遣吉士木蓮子きしのいたび於任那,問任那事。
佛舍利
釋迦佛、得道聖人之火化殘骨。七世紀半佛殿,泰半須先納舍利於中央剎柱,方得營造。
奈良縣高市郡明日香村大字飛鳥
飛鳥真神原
飛鳥川東岸,明日香村飛鳥。亦見於雄略七年條。『日本書紀通証』雖云苫田之名猶存,然實不復存。
大阪府南河內郡太子町大字太子 太子西山古墳 河內磯長中尾陵
敏達天皇 河內磯長中尾陵
奈良縣高市郡明日香村飛鳥 飛鳥寺
法興寺復元圖
奈良縣櫻井市大字倉橋 雀塚古墳
崇峻天皇 倉梯岡陵
蘇我氏既為皇戚,又除物部,其勢絕倫。竟至觸瑟弒逆,馬子至死未究。蘇我一族橫行赤焰,直逮蘇我入鹿之際,方得告歇。
五年,冬十月癸酉朔丙子四,有獻山豬やまのゐ。天皇指豬詔曰:「何時如斷此豬之頸くび,斷朕所嫌之人いとはしみするひと!」多設兵仗つはもの,有異けなる於常。
壬午十,蘇我馬子宿禰聞天皇所詔,恐嫌於己,招聚儻者やから,謀弒しいせまつらむ天皇。
是月,起大法興寺だいほふこうじ佛堂與步廊ほらう。
十一月癸卯朔乙巳三,馬子宿禰詐於群臣曰:「今日進東國あづま之調。」乃使東漢直駒やまとのあやのあたひこま,殺于天皇。【或本云,東漢直駒,東漢直磐井いはゐ子也。】
是日,葬天皇于倉梯岡陵くらはしのをかのみさざき。
或本云:大伴嬪小手子おほとものみめこてこ恨寵之衰めぐみのおとろへしこと,使人於蘇我馬子宿禰曰:「頃者有獻山豬。天皇指豬而詔曰:『如斷豬頸,何時斷朕思人おもふひと?』且於內裏おほうち大作兵仗。」於是馬子宿禰聽而驚之おどろく。
丁未五,遣驛使はゆま於筑紫將軍所曰:「依於內亂うちのみだれ,莫怠外事そとのこと。」
是月,東漢直駒偷隱ぬす蘇我嬪みめ河上娘為妻。【河上娘,蘇我馬子宿禰女也。】馬子宿禰忽不知河上娘かはかみのいらつめ為駒所偷,而謂死去まかり。駒汙けがせる嬪事顯あらはれ,為大臣所殺。
日本書紀卷廿一 終
【久遠の絆】【卷二十】【卷廿二】【再臨詔】
日本書紀 卷廿二 推古紀
豐御食炊屋姬天皇とよみけかしきやひめのすめらみこと 推古天皇すいこてんわう
奈良縣高市郡明日香村豐浦 向原寺 飛鳥豐浦宮
奈良縣高市郡明日香村豐浦 向原寺 飛鳥豐浦宮
推古天皇 飛鳥豐浦宮趾碑
豐浦宮跡即豐浦寺,今向原寺。
豐御食炊屋姬天皇とよみけかしきやひめのすめらみこと,天國排開廣庭あめくにおしはらきひろには天皇中女なかつひめみこ也,橘豐日たちばなのとよひ天皇同母妹いろど也。
幼曰額田部皇女ぬかたべのひめみこ,姿色端麗みかほきらぎらし,進止軌制みふるまひをさをさし。
年十八歲,立為渟中倉太玉敷ぬなかくらふとたましき天皇之皇后きさき。
三十四歲,渟中倉太珠敷敏達天皇崩かむあがり。
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