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三十九歲,當于泊瀨部はつせべ天皇五年十一月,天皇為大臣蘇我馬子宿禰おほおみうまこのすくね見殺。嗣位みつぎのくらゐ既空むなし。群臣まへつきみたち請渟中倉太珠敷敏達天皇之皇后額田部皇女,以將令踐祚あまつひつぎしろさしめまつらむ。皇后辭讓いなび之。百寮もものつかさ上表勸進,至于三,乃從之。因以奉天皇之璽印みしるし。
冬十二月壬申朔己卯八,皇后即天皇位於豐浦宮とゆらのみや。
元年,春正月壬寅朔丙辰十五,以佛舍利ほとけしやり,置于法興寺ほふこうじ剎柱礎いしずゑ。
丁巳十六,建剎柱せつのはしら。
二、聖德太子攝政,佛法興隆
夏四月庚午朔己卯十,立廄戶豐聰耳皇子うまやとのとよとみみのみこ為皇太子ひつぎのみこ。仍錄攝政まつりごとふさねつかさどらしめ,以萬機よろづのまつりごと悉委焉。
橘豐日用明天皇第二子也,母皇后曰穴穗部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ。皇后懷妊開胎みこあれまさむ之日,巡行禁中みやのうち,監察諸司つかさつかさ。至于馬官うまのつかさ,乃當廄戶うまやのと,而不勞なやみたまはず忽產之。
生而能言よくものいひ,有聖智ひじりのさとり。及壯をとこさかり,一聞十人訴うたへ,以勿失能辨わきまへたまひ,兼知未然ゆきさきのこと。且習內教ほとけのみのり於高麗僧慧慈こまのほふしゑじ,學外典とつふみ於博士覺哿はかせかくか,並悉達矣さとり。父天皇用明愛之,令居宮南上殿うへのみや。故稱其名,謂上宮廄戶豐聰耳太子うへのみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこと。
秋九月,改葬橘豐日用明天皇於河內磯長陵かふちのしながのみさざき。
是歲,始造四天王寺於難波荒陵なにはのあらはか。是年也,太歲癸丑。
二年,春二月丙寅朔一,詔皇太子及大臣,令興隆三寶さむほう。是時諸臣連等もろもろのおみむらじたち,各為君親之恩きみおやのみめぐみ,競きほひ造佛舍ほとけのおほとの。即是謂寺てら焉。
三年,夏四月,沉水ぢむ漂著於淡路嶋あはぢのしま。嶋人不知沉水,以交薪たきぎ燒於竈かまど。其烟氣けぶり遠薰,則異以獻之。
五月戊午朔丁卯十,高麗僧慧慈歸化まゐおもぶく。則皇太子師之。
是歲,百濟くだら僧慧聰ゑそう來之。此兩僧弘演佛教ほとけのみのり,並為三寶之棟梁むねうつはり。
秋七月,將軍いくさのきみ等至自筑紫つくし。
四年,冬十一月,法興寺造竟。則以大臣男善德臣ぜんとこのおみ拜寺司てらのつかさ。
是日,慧慈、慧聰二僧,始住はべり於法興寺。
五年,夏四月丁丑朔一,百濟王こにきし遣王子阿佐せしむあさ朝貢。
冬十一月癸酉朔甲午廿二,遣吉士磐金きしいはかね於新羅しらき。
六年,夏四月,難波吉士磐金なにはのきしいはかね至自新羅,而獻鵲かささぎ二隻。乃俾養かはしむ於難波社なにはのもり,因以巢くすひ枝而產之。
秋八月己亥朔一,新羅貢孔雀くさく一隻。
冬十月戊戌朔丁未十,越國こしのくに獻白鹿しろきか一頭。
七年,夏四月乙未朔辛酉廿七,地動なゐふり,舍屋やかす悉破。則令四方よも,俾祭地震神なゐのかみ。
秋九月癸亥朔一,百濟貢駱駝らくだ一匹、驢うさぎうま一匹、羊ひつじ二頭、白雉しろききぎす一隻。
奈良縣高市郡明日香村橘 橘寺 佛教最初 聖德皇太子御誕生所碑
橘寺 聖德皇太子御誕生所碑
奈良縣櫻井市上之宮 上之宮庭園遺跡
聖德太子上宮遺跡
大阪府南河內郡太子町春日 春日向山古墳 河內磯長原陵
用明天皇 河內磯長原陵
菊池容齋『前賢故實』廄戶皇子 聖德太子
前賢故實 廄戶皇子
韓釜山廣域市沙下區多大浦
多多羅 釜山多大浦
境部臣,未詳何人。或云境部摩理勢,或云境部雄摩侶。新羅王,按『東國通鑑』,蓋真平王也。
奈良縣生駒郡斑鳩町法隆寺山內
夢殿 聖德太子斑鳩宮跡
九年,太子初興宮室于斑鳩。
兵庫縣高砂市曽根町 日笠山
檜笠岡址 日笠山
十一年,葬舍人姬王於赤石。龜田次郎『舍人姫檜笠岡御墓考』攷日笠山一號墳為舍人媛御陵。
奈良縣高市郡明日香村奧山
推古帝小墾田宮跡 古宮土壇
古宮遺跡,或云小治田宮跡,或云蘇我蝦夷邸跡。近於豐浦宮跡。
京都市右京區太秦蜂岡町廣隆寺
蜂岡寺跡 廣隆寺
八年,春二月,新羅與任那相攻あひせむ。天皇欲救任那みまな。
是歲,命境部臣さかひべのおみ為大將軍おほいくさのきみ,以穗積臣ほづみのおみ為副將軍そひのいくさのきみ。【並闕名。】則將萬餘眾よろづあまりのいくさ,為任那擊新羅。於是直指新羅,以泛うかび海往之。乃到于新羅,攻五城いつつのさし而拔。於是新羅王惶之,舉白旗しらはた,到于將軍之麾下しるしのはたのもと而立。割多多羅たたら、素奈羅すなら、弗知鬼ほちき、委陀わだ、南迦羅ありしのから、阿羅羅あらら六城,以請服まつろはむ。時將軍共議曰:「新羅知罪服之。強擊不可よからじ。」則奏上。
爰天皇更遣難波吉師神なにはのきしみわ於新羅,復遣難波吉士木蓮子なにはのきしいたび於任那。並檢校かむがふ事狀。爰新羅王、任那王,二國遣使貢調みつきたてまつる。仍奏表ふみ之曰:「天上あめ有神,地つち有天皇。除是二神,何亦有畏乎?自今以後,不有相攻。且不乾船柂ふなかぢ,每歲必朝まゐこむ。」則遣使以召還めしかへす將軍。將軍等至自より新羅,即新羅亦侵をかす任那。
九年,春二月,皇太子初興宮室おほみや于斑鳩いかるが。
三月甲申朔戊子五,遣大伴連囓おほとものむらじくひ于高麗,遣坂本臣糠手さかもとのおみぬかで于百濟,以詔之曰:「急すむやけく救任那!」
夏五月,天皇居于耳梨行宮みみなしのかりみや。是時大雨ひさめふり,河水漂蕩ただよひ,滿于宮庭おほみや。
秋九月辛巳朔戊子八,新羅之間諜者迦摩多うかみひとかまた到對馬つしま。則捕以貢之。流上野かみつけの。
冬十一月庚辰朔甲申五,議はかる攻新羅。
十年,春二月己酉朔一,來目皇子くめのみこ為擊新羅將軍,授諸神部かむとものを及國造くにのみやつこ、伴造とものみやつこ等,并軍眾いくさ二萬五千人ひと。
夏四月戊申朔一,將軍來目皇子到于筑紫。乃進屯嶋郡しまのこほり,而聚船舶ふね運軍糧かて。
六月丁未朔己酉三,大伴連囓、坂本臣糠手,共至自百濟。是時,來目皇子臥病やまひ以不果はたさず征討。
冬十月,百濟僧觀勒くわんろく來之。仍貢曆本こよみのためし及天文てんもん、地理ちり書,并遁甲とんかふ、方術はうじゆつ之書ふみ也。是時,選書生ふみまなぶひと三四人,以俾學習ならびならはしむ於觀勒矣。陽胡史やごのふびと祖玉陳たまふる習曆法こよみ,大友村主高聰おほとものすぐりかうそう學天文、遁甲,山背臣日立やましろのおみひたち學方術。皆學以成業みち。
潤うるふ十月乙亥朔己丑十五,高麗僧僧隆そうりゆう、雲聰うんそう,共來歸まゐおもぶけり。
十一年,春二月癸酉朔丙子四,來目皇子薨みうせ於筑紫。仍驛使はゆま以奏上。爰天皇聞之大驚,則召皇太子、蘇我大臣,謂之曰:「征新羅大將軍來目皇子薨之。其臨大事而不遂矣,甚悲乎いとかなしきかも!」仍殯もがりす于周芳娑婆すはのさば。乃遣土師連豬手はじのむらじゐて,令掌殯事。故豬手連之孫ゐてのむらじがうみのこ曰娑婆連さばのむらじ,其是之緣えに也。後葬於河內埴生山岡かふちのはにふのやまのをか上。
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