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渟中倉太珠敷天皇ぬなくらのふとたましきのすめらみこと 敏達天皇びだつてんわう 奈良縣橿原市曾我川※古稱百濟川。縱貫天香久山西麓東百濟、西百濟。 百濟川
百濟大井宮,其比定地有諸說。其一,『和名抄』有河內國錦部郡百濟鄉。其二,十二年是歲條有石川百濟村。其三,同舒明帝百濟宮。其四,天香久山西麓,東、西百濟。以安閑至舒明諸帝僉宮在奈良,故三、四較可信。 烏鴉之羽 高麗上烏羽表,墨羽皆黑不能辨。辰爾蒸羽於飯氣,以帛印之而得識
※菊池容齋『前賢故實』王辰爾 前賢故實 王辰爾 船氏遠祖。欽明朝渡來,有睿智,尤以「烏羽表」逸事聞名。
 渟中倉太珠敷天皇ぬなくらのふとたましきのすめらみこと,天國排開廣庭あめくにおしはらきひろには天皇第二子也。母曰石姬皇后いしひめのきさき。【石姬皇后,武小廣國押盾たけをひろくにおしたて天皇女也。】  天皇不信佛法ほとけのみのり,而愛文史しるしふみ。  二十九年,立為皇太子ひつぎのみこ。
 三十二年,四月,天國排開廣庭欽明天皇崩。  元年,夏四月壬申朔甲戌三,皇太子即天皇位。尊皇后曰皇太后おほきさき。  是月,宮于百濟大井くだらのおほゐ。以物部弓削守屋大連もののべのゆげのもりやのおほむらじ為大連おほむらじ,如故。以蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくね為大臣おほおみ。
 五月壬寅朔一,天皇問皇子與大臣曰:「高麗使人こまのつかひ今何在?」大臣奉對曰:「在於相樂館さがらかのむろつみ。」天皇聞之,傷惻極甚いたみにへさなり,愀然みこころあよく而歎曰:「悲哉,此使人等,名既奏聞於先考天皇さきのすめらみこと矣。」乃遣群臣相樂館,檢錄かむがへしるし所獻調物みつきもの,令送京師みやこ。  丙辰十五,天皇執高麗表䟽ふみ,授於大臣。召聚諸史もろもろのふびと,令讀解之よみとかしむ。是時諸史於三日內,皆不能讀。爰有船史ふねのふびと祖王辰爾わうじんに,能奉讀釋よみとき。由是天皇與大臣,俱為讚美ほめ曰:「勤乎いそしきかも,辰爾!汝若不愛於學まなぶこと,誰能讀解?宜從今始,近侍殿中とののうち。」既而詔東西やまとかふち諸史曰:「汝等所習之業,何故不就?汝等雖眾,不及辰爾。」  又,高麗上表疏,書于烏羽からすのは。字隨羽黑,既無識者。辰爾乃蒸羽於飯氣いひのけ,以帛ねりきぬ印羽,悉寫うつす其字。朝庭みかど悉異之あやしむ。
 六月,高麗大使おほつかひ謂副使そひつかひ等曰:「磯城嶋しきしま天皇時,汝等違吾所議,被欺於他,妄分國調くにのみつき,輙與微者いやしきひと。豈非汝等過歟?其若我國王くにのきみ聞,必誅汝等!」副使等自相謂之曰:「若吾等至國時,大使顯噵あらはしまをさば吾過,是不祥さがなき事也。思欲偷殺ひそかにころし而斷其口。」  是夕,謀泄はかりこともりぬ。大使知之,裝束衣帶よそひし,獨自潛行かくれゆく。立館中庭なかには,不知所計せむすべしらず。  時有賊一人,以杖つゑ出來,打大使頭而退。次有賊一人,直向大使,打頭與手而退。大使尚嘿然もだ立地而拭のごふ面血。更有賊一人,執刀かたな急來,刺大使腹而退。是時大使恐伏地拜をろがむ。後有賊一人,既殺而去。
 明旦くるつあした,領客東漢坂上直子麻呂まらひとのつかさやまとのあやのさかのうへのあたひと等,推問かむがへとふ其由。副使等乃作矯詐いつはりこと曰:「天皇賜妻於大使。大使違敕みことのり不受。無禮茲甚ゐやなきことこれはなはだし,是以臣等為おほみため天皇殺焉。」有司つかさ以禮收葬をさめはぶる。  秋七月,高麗使人罷歸。是歲ことし,太歲壬辰。 二、斷罪吉備海部直難波
 二年,夏五月丙寅朔戊辰三,高麗使人泊于越海こしのうみ之岸。破船ふねわれ,溺死おぼほれしぬる者眾。朝庭猜うたがひ頻迷まとふ路,不饗放還かへしつかはす。仍敕吉備海部直難波きびのあまのあたひなには,送高麗使。  秋七月乙丑朔一,於越海岸,難波與高麗使等相議,以送使おくるつかひ難波船人大嶋首磐日おほしまのおびといはひ、狹丘首間狹さをかのおびとませ,令乘高麗使船,以高麗二人,令乘送使船。如此互乘,以備姧志かだみのこころ。俱時發船,至數里許。送使難波,乃恐畏波浪なみ,執高麗二人,擲入なげいる於海。  八月甲午朔丁未十四,送使難波還來復命かへりごとまをし曰:「海裏鯨魚くぢら大有,遮囓たへくふ船與檝櫂かぢさを。難波等恐魚いを吞船,不得入海。」天皇聞之,識其謾語いつはりこと,駈使つかひ於官,不放還ゆるしつかはさず國。
 三年,夏五月庚申朔甲子五,高麗使人泊于越海之岸きし。  秋七月己未朔戊寅廿,高麗使人入京奏曰:「臣等去年相逐あひしたがひ送使,罷歸於國。臣等先至臣蕃やつこのくに。臣蕃即准なぞらへ使人之禮,禮饗ゐやまひあへ大嶋首磐日等。高麗國王別以厚禮禮之。既而送使之船,至今未到。故更謹遣まだし使人并磐日等,請問臣使不來之意かへりきたらざるこころ。」天皇聞,即數せめ難波罪曰:「欺誑あざむく朝庭,一也。溺殺おぼほらしころせ鄰使,二也。以玆大罪おほきなるつみ,不合放還!」以斷さだむ其罪。  冬十月戊子朔丙申九,遣蘇我馬子大臣於吉備國きびのくに,增益白豬屯倉しらゐのみやけ與田部たべ。即以田部名籍なのふみた,授于白豬史膽津しらゐのふびといつ。
 戊戌十一,詔船史王辰爾弟牛うし,賜姓為津史つのふびと。  十一月,新羅しらき遣使進調。 福井縣敦賀市敦賀灣
越海 敦賀灣 與北陸道相鄰之日本海古稱。 大阪府羽曳野市野野上
野中寺 王辰爾船氏宗廟。此外葛井氏宗廟葛井寺,津氏宗廟善正寺。 奈良縣櫻井市戒重 春日神社
春日神社 傳譯語田幸玉宮跡 幸玉宮亦名他田宮【古事記】、乎沙多宮【天壽國曼荼羅繡帳】、乎娑阤宮【船首王後墓誌】、磐余譯語乎佐田宮【日本靈異記】等。 大阪市天王寺區茶臼山町
南波大別王寺跡 和氣山統國寺 傳南波大別王寺,或『日本靈異記』所載南波百濟寺跡。又難波乃物部氏勢力範圍,當以反佛著稱,當時何能建此佛寺,至今存謎。 三重縣明和町 齋宮歷史博物館
伊勢 齋宮寮復原模型 奈良縣奈良市登大路町 興福寺 東金堂
『聖德太子傳曆』云敏達帝八年,新羅進釋迦佛像,今在興福寺東金堂。然今不存,不詳真偽。 奈良縣櫻井市 初瀨川、三輪山
泊瀨者,即初瀨川也。自奈良櫻井東北部付近,流經三輪山傍,至奈良盆地,注入大和川。  四年,春正月丙辰朔甲子九,立息長真手王おきながまてのおほきみ女廣姬ひろひめ為皇后,是生一男二女。   其一曰,押坂彥人大兄皇子おしさかのひこひとおほえのみこ。【更名,麻呂古まろこ皇子。】
  其二曰,逆登皇女さかのぼりのひめみこ。   其三曰,菟道磯津貝皇女うぢのしつかひのひめみこ。【為伊勢齋。磯津貝三字,蓋衍。】  是月,立一夫人みめ。春日臣仲君かすがのおみなかつこ女,曰老女子夫人おみなごのおほとじ,【更名,藥君娘くすりこのいらつめ。】生三男一女。
  其一曰,難波皇子なにはのみこ。   其二曰,春日皇子かすがのみこ。   其三曰,桑田皇女くはたのひめみこ。
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