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其四曰,大派皇子おほまたのみこ。
次,采女うねめ,伊勢大鹿首小熊いせのおほかのおびとをくま女,曰菟名子夫人うなこのおほとじ。
生,太姬皇女ふとひめのみこ。【更名,櫻井皇女さくらゐのひめみこ。】與糠手姬皇女あらてひめみこ。【更名,田村皇女たむらのひめみこ。】
二月壬辰朔一,馬子宿禰大臣還于京師,復命屯倉之事。
三月乙卯朔乙丑十一,百濟くだら遣使進調,多益恒歲つねのとし。
天皇以新羅未建任那みまな,詔皇子與大臣曰:「莫懶懈おこたり於任那之事。」
夏四月乙酉朔庚寅六,遣吉士金子きしかね,使於新羅。吉士木蓮子きしのいたび,使於任那。吉士譯語彥きしのをさひこ,使於百濟。
六月,新羅遣使進調,多益常例つねのあと。并進多多羅たたら、須奈羅すなら、和陀わだ、發鬼ほちくゐ,四邑之調。
是歲,命卜者うらべ,占海部王家地あまのおほきみのいへどころ與絲井王いとゐのおほきみ家地。卜便襲吉よし。遂營宮於譯語田をさだ。是謂幸玉宮さきたまのみや。
冬十一月,皇后廣姬薨かむさり。
五年,春三月已卯朔戊子十,有司請立皇后。
詔立豐御食炊屋姬尊とよみけかしきやひめのみこと為皇后。是生二男五女。
其一曰,菟道貝鮹皇女うぢのかひたこのひめみこ。【更名,菟道磯津貝皇女うぢのしつかひのひめみこ也。】是嫁於東宮聖德ひつぎのみこしやうとく。
其二曰,竹田皇子たけだのみこ。
其三曰,小墾田皇女をはりたのひめみこ。是嫁みあひ於彥人大兄皇子。
其四曰,鸕鶿守皇女うもりのひめみこ。【更名,輕守皇女かるのもりのひめみこ。】
其五曰,尾張皇子をはりのみこ。
其六曰,田眼皇女ためのひめみこ。是嫁於息長足日廣額天皇おきながたらしひひろぬかのすめらみこと。
其七曰,櫻井弓張皇女さくらゐのゆみはりのひめみこ。
六年,春二月甲辰朔一,詔置日祀部ひまつりべ、私部きさきちべ。
夏五月癸酉朔丁丑五,遣大別王おほわけのおほきみ與小黑吉士をぐろのきし,宰みこともち於百濟國。【王人つかひ奉命,為使三韓みつのから,自稱為宰。言宰於韓,蓋古之典いにしへののり乎,如今いま言使也。餘あたし皆倣此。大別王,未詳所出いづるところ也。】
冬十一月庚午朔一,百濟國王付還使かへるつかひ大別王等,獻經論きやうろん若干卷,并律師りつし、禪師ぜんじ、比丘尼びくに、呪禁師じゆこむのはかせ、造佛工ほとけつくるたくみ、造寺工てらつくるたくみ,六人。遂安置難波なには大別王寺てら。
七年,春三月戊辰朔壬申五,以菟道皇女うぢのひめみこ,侍伊勢祠いせのまつり。即姧池邊皇子いけへのみこ,事顯而解。
八年,冬十月,新羅遣枳叱政奈末きしさなま進調,并送佛像ほとけのみかた。
九年,夏六月,新羅遣安刀奈末あとなま,失消奈末しせうなま進調。不納以還之。
十年,春閏二月,蝦夷えみし數千,寇於邊境ほとり。由是,召其魁帥綾糟あやかす等,【魁帥ひとごのかみ者,大毛人おほえみし也。】詔曰:「惟,儞蝦夷者大足彥おほたらしひこ天皇之世,合殺者斬,應原ゆるすべき者赦。今朕遵彼前例さきのあと,欲誅元惡もはらあしき。」於是,綾糟等懼然恐懼おぢかしこまり,乃下泊瀨はつせ中流,面三諸岳みもろのをか,歃すすり水而盟ちかひ曰:「臣等蝦夷,自今以後,子子孫孫うみのこのやそつつき,【古語ふること云,生兒八十綿連うみのこのやそつつき。】用清明心きよきあかきこころ,事奉天闕みかど。臣等若違盟者,天地諸神あめつちのもろもろのかみ及天皇靈みたま,絕滅臣種やつこがつぎ矣。」
十一年,冬十月,新羅遣安刀奈末、失消奈末進調。不納をさめたまはず以還之。
四、任那復興計劃,日羅進言
十二年,秋七月丁酉朔一,詔曰:「屬我先考天皇欽明帝之世,新羅滅內官家うちつみやけ之國。【天國排開廣庭欽明天皇二十三年,任那為新羅所滅。故云,新羅滅我內官家也。】先考天皇謀復任那,不果而崩,不成其志。是以朕當奉助神謀あやしきはかりごと,復興おこしたつ任那。今在百濟火葦北國造阿利斯登ひのあしきたのくにのみやつこありしと子達率日羅だちそちにちら,賢而有勇いさみ。故朕欲與其人相計。」乃遣紀國造押勝きのくにのみやつこおしかつ與吉備海部直羽嶋きびのあまのあたひはしま,喚於百濟。
冬十月,紀國造押勝等,還自百濟。復命於朝曰:「百濟國主にりむ奉惜日羅,不肯聽上。」
是歲,復遣つかはし吉備海部直羽嶋,召日羅於百濟。
羽嶋既之百濟,預先私ひそかに見日羅,獨自向家門底かどもと。俄而有家裏來韓婦からのめ,用韓語からさひづり言:「以汝之根ね,入我根內ねのうち。」即入家去。羽嶋便覺其意,隨後而入。於是,日羅迎來,把手使坐於座,密告しのびにつけ之曰:「僕竊聞之,百濟國主奉疑天朝みかど,奉遣臣やつかれ後,留而弗還。所以奉惜不肯奉進。宜宣敕時,現嚴猛色いつくしくたけきおもへり,催急うながしつつすむやけく召焉。」羽嶋乃依其計はかりこと,而召日羅。
於是,百濟國主怖畏おぢかしこみ天朝,不敢違敕。奉遣以日羅、恩率おんそち、德爾とくに、余怒よぬ、哥奴知かぬち、參官さむくわん、柂師かぢとり德率次干德とくそちしかんとく、水手かこら等,若干人。
日羅等行到吉備兒嶋屯倉こじまのみやけ,朝庭遣大伴糠手子連おほとものぬかでこのむらじ而慰勞焉やすめねぎらはしむ。復遣大夫まへつきみ等於難波館なにはのむろつみ,使訪日羅。是時日羅被甲乘馬,到門底下もと,乃進廳前まつりごとどののまへ,進退跪拜ふるまひをろがみ,歎恨而曰:「於檜隈宮御寓ひのくまのみやにあめのしたしらしめす天皇之世,我君大伴金村大連おほとものかなむらのおほむらじ奉為國家みかど,使於海表わたのほか火葦北國造刑部靫部をさかべのゆけひ阿利斯登之子,臣達率日羅,聞天皇召,恐畏かしこみ來朝。」乃解其甲,奉於天皇。乃營館於阿斗桑市あとのくはのいち,使住日羅,供給隨欲。
復遣阿倍目臣あへのめのおみ、物部贄子連もののべのにへこのむらじ、大伴糠手子連,而問國政くにのまつりごと於日羅。日羅對言:「天皇所以治天下政,要須かならず護養黎民たみ。何遽興兵,翻將失滅?故今合議者はかりごとひと仕奉朝列みかど臣、連、二造ふたつのみやつこ,【二造者,國造、伴造とものみやつこ也。】下及百姓おほみたから,悉皆饒富にぎはひとみ,令無所乏。如此三年,足食足兵,以悅使民。不憚水火みづひ,同恤うれへむ國難。然後多造船舶ふね,每津列置,使觀客人となりのまらひと,令生恐懼。爾乃,以能使よきつかひ使於百濟,召其國王にりむ。若不來者,召其大佐平だいさへい、王子せしむ等來。即自然心生欽伏つつしみしたがふ。後應問罪。」又奏言:「百濟人謀言:『有船三百,欲請筑紫つくし。』若其實請,宜陽賜予いつはりてたまはる。然則百濟欲新造國,必先以女人めのこ、小子わらは,載船而至。國家望於此時,壹岐いき、對馬つしま多置伏兵かくしいくさ,候至而殺。莫翻被詐あざむかれ。每於要害ぬみ之所,堅築壘塞そこ矣。」
於是恩率、參官,臨罷國時,【舊本ふるふみ,以恩率為一人,以參官為一人也。】竊語德爾等言:「計吾過筑紫許ばかり,汝等偷殺日羅者,吾具白王,當賜高爵たかきかうぶり。身及妻子,垂榮於後。」德爾、余奴皆聽許焉。
參官等遂發途みちたちす於血鹿ちか。於是,日羅自桑市村くはのいちむら遷難波館。德爾等晝夜相計ひるよるあひはかり,將欲殺。時日羅身光,有如火焰ほのほ。由是德爾等恐而不殺。遂於十二月晦しはすのつごもり,候失光,殺。日羅更蘇生よみがへり曰:「此是我駈使奴つかひやつこ等所為,非新羅也。」言畢をはり而死。【屬あたり是時,有新羅使。故云爾也。】
天皇詔贄子大連にへこのおほむらじ、糠手子連,令收葬於小郡西畔丘前をごほりのにしのほとりのをかのさき。以其妻子めこ、水手等,居于石川いしかは。於是,大伴糠手子連議曰:「聚居一處,恐生其變はかりこと。」乃以妻子居于石川百濟村くだらのむら,水手等居于石川大伴村おほとものむら。收縛とらへゆはひ德爾等,置於下百濟河田村しもつくだらのかはたのむら。遣數大夫,推問其事。
德爾等伏罪言:「信まことなり。是恩率、參官教使為也。僕等為人之下ひとのしも,不敢違矣。」由是下獄ひとや,復命朝庭。乃遣使於葦北,悉召日羅眷屬やから,賜德爾等任情決罪つみせしむ。是時葦北君あしきたのきみ等,受而皆殺,投彌賣嶋みめしま。【彌賣嶋,蓋姬嶋ひめしま也。】日羅移葬於葦北。於後,海畔うみへた者言:「恩率之船,被風沒いり海。參官之船,漂泊津嶋つしま,乃始得歸。」
宮崎縣東諸縣郡國富町大字田尻 日羅上人坐像
本庄磨崖佛 日羅上人坐像
傳日羅自刻像。
滿性寺藏 聖德太子繪像
滿性寺藏 聖德太子繪像
圖中日羅居右,慧慈居左。
長崎縣北松浦郡小値賀町
血鹿
五島列島,或其中小值賀島。
大阪市北區天滿橋
日羅公之墓
奈良縣奈良市中院町
元興寺
『聖德太子傳曆』云彌勒石像,今在古京之元興寺東金堂。
奈良縣橿原市石川町
本明寺 石川精舍跡
馬子于石川宅修置佛殿。
奈良縣高市郡明日香村大字豐浦※『大和志』云:「廢大野丘北塔,在和田村。礎石猶存。」有橿原市和田町說。然攷古檢之,訛也。
大野丘北 明日香村豐浦
大野丘北塔,『元興寺』緣起云:「立剎柱于止由良佐崎。」蓋明日香村豐浦前歟。
十三年,春二月癸巳朔庚子八,遣難波吉士木蓮子,使於新羅。遂之ゆく任那。
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