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菊池容齋『前賢故實』三輪逆 前賢故實 三輪逆  夏五月,穴穗部皇子あなほべのみこ欲姧炊屋姬皇后推古帝,而自強入於殯宮もがりのみや。
 寵臣めぐみたまふまへつきみ三輪君逆乃喚兵衛つはものとねり,重璅宮門みかど,拒而勿入。穴穗部皇子問曰:「何人在此?」兵衛答曰:「三輪君逆みわのきみさかふ在焉。」七呼開門,遂不聽ゆるし入。  於是穴穗部皇子謂大臣與大連曰:「逆頻無禮矣ゐやなし。於殯庭もがりのみや誄曰:『不荒朝廷みかど,淨如鏡面かがみのおもて,臣治平をさめむけ奉仕。』即是無禮。方今天皇子弟みやから多在,兩大臣侍。誰得恣情こころのほしきまま,專言奉仕つかへまつらむ?又余觀殯內もがりのみやのうち,拒ふせき不聽入。自呼:『開門!』七迴不應。願欲斬之。」兩大臣曰:「隨命みことのまにまに。」於是穴穗部皇子陰謀王天下あめのした之事,而口詐くちにいつはり在於殺逆君さかふのきみ。遂與物部守屋大連,率兵圍繞磐余池邊いはれのいけのへ。逆君知之,隱於三諸之岳みもろのをか。  是日夜半よなか,潛ほそかに自山出,隱於後宮さきのみや。【謂炊屋姬皇后推古帝之別業なりどころ,是名海石榴市宮つばきちのみや也。】逆之同姓白堤おなじうぢしらつつみ與橫山よこやま,言逆君在處。穴穗部皇子即遣守屋大連,【或本云,穴穗部皇子與泊瀨部皇子はつせべのみこ,相計而遣守屋大連。】曰:「汝應往討うつ逆君并其二子。」大連遂率ゐて兵去。
 蘇我馬子宿禰外ほか聞斯計,詣皇子所,即逢門底かどもと。【謂皇子家門いへのかど也。】將之大連所。時諫いさめ曰:「王者きみたるひと不近刑人つみひと,不可自往。」皇子不聽而行。馬子宿禰即便すなはち隨去,到於磐余,【行至於池邊いけのへ也。】而切諫之せめいさむ。皇子乃從諫止。仍於此處,踞坐胡床あぐら,待大連焉。  大連良久ややひさしく而至,率眾いくさびと報命曰:「斬逆等訖。【或本云,穴穗部皇子自行射殺いころす。】」於是馬子宿禰惻然頹歎いたみなげき曰:「天下之亂みだれ不久矣!」大連聞而答曰:「汝小臣こまへつきみ之所不識也!」【此三輪君逆者,譯語田をさた天皇之所寵愛。悉委內外之事うちとのこと焉。由是炊屋姬皇后推古帝與馬子宿禰,俱發恨於穴穗部皇子也。】是年也,太歲丙午。 三、天皇崩御
 二年,夏四月乙巳朔丙午二,御新嘗にひなへきこしめす於磐余河上いはれのかはかみ。  是日,天皇得病おほみこころそこなひ,還入於宮,群臣まへつきみたち侍焉。天皇詔群臣曰:「朕思欲歸三寶さむぽう。卿等議之。」群臣入朝まゐいり而議。  物部守屋大連與中臣勝海連なかとみのかつみのむらじ,違詔議曰:「何背國神くにつかみ,敬他神あたしかみ也?由來もとより,不識若斯事かくのごときこと矣!」蘇我馬子宿禰大臣曰:「可隨詔而奉助たすけまつる。詎たれ生異計けなるはかりこと?」於是皇弟皇子すめおとのみこ,【皇弟皇子者,穴穗部皇子,即天皇庶弟ままおと。】引豐國法師とよくにほふし,【闕名也。】入於內裏おほうち。物部守屋大連邪睨にらみ大怒。
 是時押坂部史毛屎おしさかべのふびとけくそ,急來密語大連曰:「今群臣圖はかり卿,復將斷路。」大連聞之,即退於阿都あと,【阿都,大連之別業所在はべる地名也。】集聚人焉。中臣勝海連於家集眾いくさ,隨助したがひたすく大連。遂作太子ひつぎのみこ彥人皇子像與竹田皇子たけだのみこ像,厭之まじなふ。俄而しばらくありて知事難濟なり,歸附彥人皇子ひこひとのみこ於水派宮みまたのみや。【水派,此云みまた美麻多。】舍人迹見赤檮とねりとみのいちひ,伺勝海連自彥人皇子所退,拔刀たち而殺。【迹見,姓うぢ也。赤檮,名也。赤檮,此云いちひ伊知毘。】  大連從阿都家,使物部八坂もののべのやさか、大市造小坂おほちのみやつこをさか、漆部造兄ぬりべのみやつこあに,謂馬子大臣曰:「吾聞群臣謀我,我故退焉。」馬子大臣乃使土師八嶋連はじのやしまのむらじ於大伴毘羅夫連おほとものひらぶのむらじ所,具述大連之語。由是毘羅夫連手執弓箭ゆみや、皮楯かはたて,就槻曲家つきくまのいへ,不離晝夜,守護まもる大臣。【槻曲家者,大臣家也。】  天皇之瘡みやまひ轉盛,將欲終時,鞍部多須奈くらつくりのたすな,【司馬達等しめだちと子也。】進而奏曰:「臣奉為天皇,出家修道いへでおこなひ。又奉造丈六佛像ぢやうろくのほとけのみかた及寺。」天皇為之悲慟かなしびまとひ。今南淵坂田寺みなぶちのさかたでら木丈六佛像、挾侍菩薩けふじのぼさち是也。
 癸丑九,天皇崩于大殿おほとの。  秋七月甲戌朔甲午廿一,葬はぶり于磐余池上陵いけのへのみさざき。 菊池容齋『前賢故實』物部守屋
前賢故實 物部守屋 磐余池上陵,所在不詳。推古帝御宇元年,改葬河内磯長陵。『古事記』下卷云:「御陵在石寸掖上,後遷科長中陵也。」 泊瀨部天皇はつせべのすめらみこと 崇峻天皇すしゆんてんわう
奈良縣生駒郡斑鳩町法隆寺西 藤之木古墳 葬者二人。傳穴穗部皇子墓,宅部皇子合葬。或云合葬者崇峻帝。
 泊瀨部天皇はつせべのすめらみこと,天國排開廣庭欽明天皇第十二子也。母曰小姊君をあねのきみ。【稻目宿禰女也,已見上文かみのくだり。】  二年,夏四月,橘豐日用明天皇崩。  五月,物部大連軍眾三度驚駭とよもす。大連元欲去餘皇子等,而立穴穗部皇子為天皇。及至於今,望因遊獵かり,而謀替立かへたつる,密使人於穴穗部皇子曰:「願與皇子將馳獵かり於淡路あはぢ。」謀泄はかりこともりぬ。
 六月甲辰朔庚戌七,蘇我馬子宿禰等奉炊屋姬尊推古,詔佐伯連丹經手さへきのむらじにふて、土師連磐村はじのむらじいはれ、的臣真嚙いくはのおみまくひ曰:「汝等嚴かざり兵速往,誅殺穴穗部皇子與宅部皇子やかべのみこ!」  是日夜半,佐伯連丹經手等圍穴穗部皇子宮。於是,衛士いくさびと先登樓上たかどののうへ,擊穴穗部皇子肩。皇子落於樓下,走入偏室かたはらのや。衛士等,舉燭ひともし而誅。  辛亥八,誅宅部皇子。【宅部皇子,檜隈ひのくま天皇之子,上女王かみつひめのおほきみ之父也。未詳。】善うるはし穴穗部皇子,故誅。
 甲子廿一,善信阿尼ぜんしんのあま等謂大臣曰:「出家之途,以戒いむ為本。願向百濟くだら,學受戒法いみのり。」  是月,百濟調使みつきのつかひ來朝。大臣謂使人つかひ曰:「率此尼等,將渡汝國,令學戒法,了時發遣たてまだせ。」使人答曰:「臣等歸蕃くに,先噵國王くにのきみ。而後發遣,亦不遲也。」 二、物部守屋殉國
 秋七月,蘇我馬子宿禰大臣勸すすめ諸皇子與群臣,謀滅物部守屋大連。  泊瀨部皇子、竹田皇子、廄戶皇子、難波皇子なにはのみこ、春日皇子かすがのみこ、蘇我馬子宿禰大臣、紀男麻呂宿禰きのをまろのすくね、巨勢臣比良夫こせのおみひらぶ、膳臣賀拖夫かしはでのおみかたぶ、葛城臣烏那羅かづらきのおみをなら,俱率軍旅いくさ,進討大連。大伴連嚙おほとものむらじくひ、阿倍臣人あへのおみひと、平群臣神手へぐりのおみかむて、坂本臣糠手さかもとのおみぬかで、春日臣かすがのおみ,【闕名字。】俱率軍兵いくさ,從志紀郡しきのこほり到澀河しぶのかは家。  大連親率子弟與奴軍やつこいくさ,築稻城いなき而戰。於是,大連昇衣揩朴枝間きぬすりのえのきのまた,臨射のぞみいる如雨。其軍強盛こはく,填家溢野。皇子等軍與群臣眾いくさ,怯弱恐怖,三迴卻還しりぞく。
 是時,廄戶皇子束髮於額ひさごはな,【古俗いにしへのひと,年少兒,年十五、六間,束髮於額。十七、八間,分為角子あげまき。今亦然之。】而隨軍後。自忖度はかり曰:「將はた無見敗,非願難成!」乃斮取きりとり白膠木,【白膠木ぬりで,此云ぬりで農利埿。】疾作四天王像してんわうのみかた,置於頂髮たきふさ而發誓言:「今若使我勝敵,必當奉為護世四王ごせしわう,起立寺塔てら!」  蘇我馬子大臣又發誓言:「凡諸天王しよてんわう、大神王だいじんわう等,助衛たすけまもり於我,使獲利益かつこと,願當奉為みため諸天與大神王,起立寺塔,流通三寶!」誓已,嚴種種兵くさぐさのつはもの,而進討伐うつ。  爰有迹見首赤檮とみのおびといちひ,射墮いおとし大連於枝下,而誅大連并其子等。由是大連之軍忽然自敗。合こぞり軍悉被皁衣くろきぬ,馳獵廣瀨勾原ひろせのまがりのはら而散あかれぬ。
 是役,大連兒息こ與眷屬やから,或有逃匿葦原あしはら,改姓換名者。或有逃亡にげうせ不知所向者。時人相謂曰:「蘇我大臣之妻,是物部守屋大連之妹いろも也。大臣妄みだりに用妻計,而殺大連矣!」  平亂之後,於攝津國つのくに造四天王寺してんわうじ。分大連奴半なかば與宅,為大寺奴おほてらのやつこ、田莊たどころ。以田一萬頃よろづしろ,賜迹見首赤檮。蘇我大臣亦依本願もとのねがひ,於飛鳥地あすかのところ起法興寺ほふこうじ。 物部守屋公顯彰碑
 物部守屋もののべのもりや公者,建國功臣饒速日命にぎはやひのみこと裔也。代為護朝武人もののふ,領往古八尾やを周邊河內かふち之地。  方佛教ほとけののり始渡本朝之際,護我國神くにつかみ道統,繼其父公尾輿をこし之堅志。  用明天皇貳年,斥人背國神以敬蕃神となりのくにのかみ,與蘇我馬子そがのうまこ生隙。
 是以,公歸河內,舉族起而干戈いくさ,奮戰幾度而天時不利,同年柒月柒日,果敢歿身みうせぬ。  嗚呼ああ!然公者純乎憂國之精神こころざし,當永照日人之道乎,春風秋雨幾星霜いくとせ!  當其墓所,今八尾市之史蹟,亦最古之墓,今為遠土之領主,而仰其遺德ひととなり矣。
 大正玖年,吾等先輩祀職,年修をさめ墓所,愈為懇切ねもころ。  方迎仟參佰扒拾年之祀,茲念其年來之司祭,以豎此碑,聊慰黃泉よもつ英雄而奉上云爾。 昭和四十二年六月吉辰 大阪おほさか府神社廳中河內分會建之
大阪府八尾市南木 淨土真宗本願寺派若江山光蓮寺 物部守屋稻城址 光蓮寺 物部守屋稻城址 守屋殉國,其宅沒為寺。
大阪府八尾市太子堂 史蹟 弓代塚/鏑矢塚 傳赤檮射墮守屋之弓/矢所埋處
大阪府八尾市太子堂 大聖勝軍寺 聖德太子古戰場碑 大阪府八尾市太子堂※【物部守屋公顯彰碑】物部守屋公は,建國の功臣饒速日命の裔にして,代代宮廷を守護し武を司る家門に生れ給ひ,往古の八尾を中心とする河内一帯の地は其の所領たりき。我国に始めて佛教渡來するや,國風たる唯神の道統を護持せんと,父公尾輿の固き志を繼ぎ,用明天皇二年,「何ぞ国神に背き他神を敬せんや」と斷じ,蘇我馬子と激しく對立。公は河內に歸り,一族を舉り此地に干戈を交へて幾度か勇戰奮闘せられしも,時に利非ず,同年七月七日,遂に果敢くも陳歿せられぬ。嗚呼、然れとも公の純乎たる憂國の精神は永く日本人の道を照さずてあるべき。春風秋雨幾星霜。当墓所は今日八尾市の史蹟として最古の墳墓たるの御墓、遠く鄉土の領主として其の遺徳を仰ぎつつ,大正九年より吾等先輩祀職,年每に墓所を修め来りて愈愈懇なり。今年一千三百八十年祭を迎ふるに際り,茲に年來の司祭を記念し碑を建て,聊か黃泉の英雄を慰め奉ると云爾。昭和四十二年六月吉辰 大阪府神社廳中河內分會建之
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