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菊池容齋『前賢故實』津守吉祥 前賢故實 津守吉祥 遣唐副使。對唐天子所問,吉祥敷陳詳悉,高宗善之。
遣唐使船 此行吳唐海路,以北路途上三韓交戰,故採南路,直行江南。 唐高宗李治
齊明朝時,唐天子者高宗李治。太宗李世民第九子也。 島根縣出雲市大社町杵築東 出雲大社 出雲大社
出雲國造修繕神宮云云,神之宮者,杵築大社,即出雲大社也。 島根縣八束郡東出雲町揖屋 揖夜神社 揖夜神社
言屋社,揖夜神社也。或云揖屋神社、伊布夜社。近有伊賦夜坂,即黃泉津比良坂、泉津平坂是矣。  秋七月丙子朔戊寅三,遣小錦下坂合部連石布さかひべのむらじいはしき、大仙下だいせんげ津守連吉祥つもりのむらじきさ,使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子もろこしのみかど。  『伊吉連博德書いきのむらじはかとこがふみ』曰:同天皇之世,小錦下せうきむげ坂合部石布連、大山下津守吉祥連等二船,奉使吳唐之路くれもろこしのみち。
 以己未齊明五年七月三日,發ふなだち自難波三津之浦なにはのみつのうら。  八月十一日,發自筑紫大津おほつ之浦。  九月十三日,行到百濟南畔みなみのほとり之嶋。嶋名毋分明わきわきしきこと。
 以十四日,寅時,二船相從あひしたがひ,放出大海おほうみ。  十五日,日入之時ひぐれ,石布連船,橫よこしまに遭逆風さかしまかぜ,飄到ただよひつく南海之嶋みなみうみのしま。嶋名爾加委にかゐ。仍よりて為嶋人しまひと所滅。便東漢長直阿利麻やまとのあやのながのあたひありま、坂合部連稻積さかひべのむらじいなづみ等五人,盜乘ぬすみのり嶋人之船,逃到括州くわつしう。州縣官人しうくゑんのつかさ送到洛陽らくやう之京みやこ。  十六日,夜半之時よなか,吉祥連船,行到越州會稽縣須岸山ゑつしうくわいけいくゑんのしゆがんさん。東北風うしとらのかぜ,風太急はなはだとし。
 二十三日,行到餘姚縣よえうくゑん。所乘大船おほふね及諸調度之物そなへつもの留著とどめおく彼處。  潤十月一日,行到越州ゑつしう之底もと。  十月十五日,乘驛はゆま入京。
 二十九日,馳到東京ひむがしのみやこ。天子在東京洛陽。  三十日,天子相見問訊之:「日本國やまとのくに天皇,平安たひらかにますや以不?」使人つかひ謹答:「天地あめつち合德いきほひ,自おのづから得平安。」天子問曰:「執事卿等まへつきみたち,好在さきくはべりや以不?」使人謹つつしみ答:「天皇憐重めぐみ,亦得好在。」天子問曰:「國內くぬち平不いなや?」使人謹答:「治まつりごと稱かなひ天地,萬民おほみたから無事。」天子問曰:「此等蝦夷國有何方いづれのかた?」使人謹答:「國有あり東北。」天子問曰:「蝦夷幾種いくくさ?」使人謹答:「類たぐひ有三種。遠者名都加留つかる,次者麤蝦夷あらえみし,近者名熟蝦夷にきえみし。今此熟蝦夷。每歲としごと,入貢本國やまとのくに之朝。」天子問曰:「其國有五榖いつつのたなつもの?」使人謹答:「無之。食肉存活わたらふ。」天子問曰:「國有屋舍やかず?」使人謹答:「無之。深山みやま之中,止住すまふ樹本このもと。」天子重かさねて曰:「朕見蝦夷身面むくろかほ之異いなる,極理喜怪きはめてよろこびあやしぶ。使人遠來辛苦たしなからむ。退在館裏むろつみ,後更相見。」  十一月一日,朝みかど有冬至之會とうじのゑ。會日亦覲まみゆ。所朝諸蕃くにぐに之中,倭客やまとのまらうど最勝。後由出火之亂みづながれのみだれ,棄而不復檢。
 十二月三日,韓智興かんちこう傔人ともびと西漢大麻呂かふちのあやのおほまろ,枉まげ讒よこす我客。客等獲罪唐朝もろこしのみかど,已決流罪ながすつみ。前さきだち流智興於三千里之外。客中有伊吉連博德奏まをす。因即免ゆるされぬ罪。事了ことをはり之後敕旨みことのりすらく:「國家,來年必有海東わたのひむがし之政。汝等倭客,不得東歸。」遂逗とどめ西京長安,幽置いうちす別處。閉戶防禁ふせき,不許東西かにかく。困苦たしなむこと經年。  『難波吉士男人書なにはのきしをひとがふみ』曰:向大唐大使,觸嶋而覆くつがへる。副使親覲天子,奉示蝦夷。於是蝦夷以白鹿皮しろしかのかは一、弓三、箭や八十獻于天子みかど。  庚寅十五,詔群臣:「於京內みやこのうち諸寺,勸講盂蘭盆經うらぼんきやう,使報七世父母ななつぎのかぞいろはのめぐみ。」
 是歲,命出雲國造いづものくにのみやつこ,【闕名。】修嚴つくりよそふ神之宮かみのみや。狐きつね嚙斷於友郡おうのこほり役丁えのよほろ所執葛末かづらのすゑ而去。又狗いぬ嚙置死人手臂しにひとのただむき於言屋社いふやのやしろ。【言屋,此云いふや伊浮瑘。天子崩兆。】又高麗使人持羆皮一枚,稱其價あたひ曰:「綿わた六十斤。」市司いちのつかさ咲而避去さりぬ。高麗畫師子麻呂ゑかきこまろ,設同姓賓うがらのまらひと於私家日,借官羆皮七十枚,而為賓席しきゐ。客等羞怪はぢあやしび而退。  六年,春正月壬寅朔一,高麗使人乙相賀取文がすもん等一百餘,泊于筑紫。  三月,遣阿倍臣,【闕名。】率船二百艘ふな,伐肅慎國。
 阿倍臣以陸奧蝦夷,令乘己船,到大河おほかは側。於是渡嶋蝦夷一千餘,屯聚いはみ海畔,向河而營いほりす。營中二人進而急叫にはかにさけび曰:「肅慎船師多來將殺我等之故,願欲濟わたり河而仕官つかへまつらむ矣。」阿倍臣遣船喚至兩箇ふたり蝦夷,問賊隱所かくれどころ與其船數ふなかず。兩箇蝦夷便指隱所曰:「船二十餘艘。」即遣使喚。而不肯來まゐきかへず。  阿倍臣乃積綵帛、兵、鐵ねりかね等於海畔うみのほとり,而令貪嗜むさぼらしむ。肅慎乃陳船師,繫羽はね於木,舉而為旗はた。齊棹さを近來,停於淺處あさきところ。從一船裏,出二老翁おきな,迴行めぐりありかしめ,熟つらつら視所積綵帛等物。便換著單衫ひとへきぬ,各提布ぬの一端むら,乘船還去。俄而しばらくありて老翁更來,脫置換衫,并置提布ひきさげたるぬの,乘船而退。  阿倍臣遣數船使喚,不肯來,復於弊賂辨嶋へろべのしま。【弊賂辨,渡嶋之別わかれ也。】食頃しばらくありて乞和あまなはむ。遂不肯聽。據己柵戰。于時,能登臣馬身龍のとのおみまむたつ為敵被殺。猶戰未倦之間うまざるあひだ,賊破やぶれ殺己妻子めこ。
 夏五月辛丑朔戊申八,高麗使人乙相いつさう賀取文等,到難波館なにはのむろつみ。  是月,有司つかさ奉敕,造一百高座かうざ、一百納袈裟なふのけさ,設仁王般若之會にんわうはんにやのをがみ。又皇太子中大兄初造漏剋ろこく,使民知時。又阿倍引田臣,【闕名。】獻夷えみし五十餘。又於石上池邊いそのかみのいけのほとり作須彌山。高如廟塔べうたふ,以饗肅慎四十七人。又舉國百姓くにこぞるおほみたから無故持兵つはもの,往還於道。【國老くにのおきな言:「百濟國失所之相しるし乎。」】 八、百濟滅亡與遺臣奮鬥
 秋七月庚子朔乙卯十六,高麗使人乙相賀取文等罷歸まかりかへりぬ。  又覩貨羅とくわら人乾豆波斯達阿けんづはしだちあ欲歸本土もとつくに,求請こひまをし送使曰:「願後朝つかへまつらむ於大國やまと。所以留妻為表しるし。」乃與數十人入于西海之路にしのうみつぢ。  高麗沙門道顯だうけん『日本世記にほんせいき』曰:七月,云云。春秋智しゆんじうち借大將軍蘇定方おほきいくさのきみそていほう之手,使擊百濟,亡之。或曰:「百濟自亡。由君大夫人こきしのはしかし妖女たはめのこ之無道あぢきなし,擅奪國柄くにのかび,誅殺賢良さかしひと故,召斯禍わざはひ矣。可不慎歟,可不慎歟。」其注しるせる云:「新羅春秋智,不得願ながひ於內臣蓋金うちのおみかふこむ。故亦使於唐,捨俗衣冠くにわざのよそひ,請媚こび於天子,投禍於鄰國となりのくに,而構かまふ斯意行こころ者也。」
 『伊吉連博德書』云:庚申年八月,百濟已平之後すでにことむけてのち,九月十二日,放ゆるす客本國もとつくに。  十九日,發自西京にしのみやこ。  十月十六日,還到東京洛陽,始得相見阿利麻等五人。
 十一月一日,為將軍蘇定方等所捉百濟王くだらのこにきし以下太子隆りう等諸王子せしむ十三人,大佐平沙宅千福だいさへいさたくせんふく、國辨成こくべんじやう以下三十七人,并五十許ばかり人。奉進朝堂みかど。急引趍向おもむく天子。天子恩敕めぐみて見前放著みまへにしてゆるしたまふ。  十九日,賜勞ねぎらひたまふ。  二十四日,發自東京洛陽。
 九月己亥朔癸卯五,百濟遣達率【闕名。】沙彌覺從さみかくじゆ等來奏曰:【或本云,逃來にげまゐきて告難わざはひ。】「今年七月,新羅恃たのみ力作勢いきほひ,不親むつびず於鄰。引構ゐあはす唐人,傾覆かたぶけくつがへす百濟!君臣總俘みなとりこにす,略無噍類ほぼのこるものなし!【或本云,今年七月十日,大唐蘇定方,率船師軍尾資之津びしのつ,新羅王春秋智率兵馬軍いくさだちす于怒受利之山ぬずりのむれ。夾擊はさみうつ百濟,相戰三日,陷我王城こにさし。同月十三日,始破王城。怒受利山,百濟之東堺ひむがしのさかひ也。】 於是,西部せいほう恩率鬼室福信くゐしつふくいん赫然發憤いかりむつかり,據任射岐山にざぎのむれ。【或本云,北任敘利山きたのにじょりのむれ。】達率餘自進よじしん據中部久麻怒利城ちうほうくまぬりのさし。【或本云,都都岐留山つつきるのむれ。】各營一所,誘聚をこつりあつむ散卒。兵つはもの盡前役さきのえだち,故以棓つかなぎ戰。新羅軍破,百濟奪其兵。繼而百濟兵翻銳とし,唐不敢入。福信等遂鳩集あつめ同國,共保王城。國人尊たふとび曰:『佐平さへい福信!佐平自進!』唯福信起神武之權あやしくたけきはかりこと,興既亡之國すでにほろびしくに。」 北濟滅亡略圖 【依三國史記推之】 『舊唐書』高宗本紀:「十一月戊戌朔,邢國公蘇定方獻百濟王扶余義慈,太子隆等五十八人俘於則天門,責而宥之。」嚼類,活口也。
韓全羅北道群山市聖山面 錦江河口 尾資津 韓忠清南道論山市連山面青銅里
怒受利山 韓忠清南道禮山郡大興面 大興任存城 任射岐山
滋賀縣蒲生郡日野町小野 鬼室神社 鬼室神社 嗣福信。百濟最高官階云佐平。以佐平呼福信、自進,非為官位,實乃敬稱。日本亦敬彼復國遺臣,沿稱佐平。佐平貴智為遣日交涉官,蓋實官乎。
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