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三重縣明合町中海 祓川
祓川
續麻郊,『和名抄』云:「伊勢國多氣郡麻續鄉。」蓋祓川下游,近有麻續神社。
界信濃國伊郡阿知驛、美濃國惠奈郡坂本驛之神坂峠
巨坂 神坂峠
景行、推古紀稱信濃坂。
將伐新羅時童謠:此謠除「甲子」外,皆唯假名傳世。實意不詳,甚難解矣。時至今日,解法都合二十餘種,仍無定說。然大致指出,該謠敘述百濟覆亡及預言日本援軍敗戰之兆。【細部解說、翻譯】
九、百濟,對日求援
冬十月,百濟佐平鬼室福信,遣佐平貴智くゐち等,【或本云,佐平貴智、達率正珍しやうちん也。】來獻唐俘とりこ一百餘人。今美濃國みののくに不破ふは、片縣かたあがた二郡唐人もろこしひと等也。又乞師請救。并乞王子餘豐璋よほうしやう曰:「唐人率我蝥賊あしきあた,來蕩搖ただよふ我疆場さかひ,覆我社稷くに,俘我君臣きみやつこ。【百濟王義慈,其妻恩古おんこ,其子隆等,其臣佐平千福、國辨成、孫登そんとう等凡五十餘。秋七月十三日,為蘇將軍所捉,而送去於唐國。蓋是無故ゆゑなく持兵之徵しるし乎。】而百濟國遙賴かがふり天皇護念みめぐみ,更鳩集以成邦くに。方今謹願,迎百濟國遣侍天朝みかど王子豐璋,將為國主にりむ。」云云。
詔曰:「乞師いくさ請救すくひ,聞之古昔いにしへ。扶たすけ危繼つぐ絕,著あらはれたり自恒典つねののり。百濟國窮せまり來歸より我。『以本邦喪亂ほろびみだれる,靡依靡告,枕戈ほこ嘗膽い。必存拯救すくひ。』遠來表啟まをす,志こころざし有難奪。可分命わかちおほせ將軍,百道もものみち俱前すすむ。雲會雷いかづち動,聚集沙㖨さたく,翳きり其鯨鯢あた,紓のべて彼倒懸せまれる。宜有司具為與之つぶさにそなへあたへ,以禮ゐや發遣。」云云。【送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝ちうしよう等。其正まさしく發遣之時,見于七年。或本云:「天皇立たて豐璋為王こきし,立塞上さいじやう為輔たすけ,而以禮發遣たてつかはす焉。」】
十二月丁卯朔庚寅廿四,天皇幸いでます于難波宮なにはのみや。天皇方隨福信所乞之意,思幸筑紫,將遣救軍すくひのいくさ,而初幸斯,備諸軍器つはもの。
是歲,欲為百濟,將伐新羅。乃敕駿河國するがのくに造船。已訖,挽ひき至續麻郊をみの之時,其船夜中無故艫舳相反へともあひかへれり。眾知終つひに敗。
科野國しなののくに言:「蠅群はへむらがれ向西,飛踰とびこゆ巨坂おほさか。大十圍許といだきばかり,高至蒼天あめ。」或知さとる救軍敗績之怪やぶれむしるまし。有童謠わざうた曰:
まひらくつのくれつれ摩比邏矩都能俱例豆例をのへたをらふくのりかりが於能幣陀乎邏賦倶能理歌理鵝
みわたとのりかみ美和陀騰能理歌美をのへたをらふくのりかりが烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝
甲子とわよとみ騰和與騰美をのへたをらふくのりかりが烏能陛陀烏邏賦俱能理歌理鵝
十、天皇海路西征
七年,春正月丁酉朔壬寅六,御船みふね西征,始就于海路うみつち。
甲辰八,御船到于大伯海おほくのうみ。時大田姬皇女おほたのひめみこ產女焉。仍名なづけ是女曰大伯皇女おほくのひめみこ。
庚戌十四,御船泊于伊豫いよ熟田津にきたつ石湯行宮いはゆのかりみや。【熟田津,此云にきたつ儞枳柁豆。】
三月丙申朔庚申廿五,御船還至于娜大津なのおほつ。居于磐瀨行宮いはせのかりみや。天皇改此,名曰長津ながつ。
夏四月,百濟福信遣使上表,乞迎其王子糺解くげ。
釋ほふし道顯『日本世記』曰:百濟福信獻書,祈其君こきし糺解於東朝みかど。
或本云:四月,天皇遷居于朝倉宮あさくらのみや。
五月乙未朔癸卯九,天皇遷居于朝倉橘廣庭宮あさくらのたちばなのひろにはのみや。是時,斮除きりはらひ朝倉社あさくらのやしろ木,而作此宮之故,神忿かみいかり壞殿おほとの。亦見宮中鬼火おにび。由是大舍人おほとねり及諸近侍ちかくはべるひと病死者眾。
丁巳廿三,耽羅たむら始遣王子阿波伎あはぎ等貢獻みつきたてまつる。
『伊吉連博得書』云:辛酉年,正月むつき二十五日,還到越州。
四月一日,從越州上路みちたち,東歸。
七日,行到檉岸山ちやうがんさん明みなみ。
以八日雞鳴之時あかとき,順西南風ひつじさるのかぜ,放船大海。海中迷途,漂蕩辛苦ただよひたしなむ。九日八夜,僅わづかに到耽羅之嶋。便即招慰をきこしらへ嶋人王子阿波伎等九人,同載客船まらひとのふね,擬獻帝朝みかど。
五月二十三日,奉進朝倉之朝あさくらのみかど。耽羅入朝まゐくること,始於此時。
又為智興傔人東漢草直足嶋やまとのあやのかやのあたひたりしま所讒,使人等不蒙寵命みめぐみ。使人等怨,徹とほり于上天之神あめのかみ,震死かむとけしてころしつ足嶋。時人稱曰:「大倭やまと天報あめのむくい之近。」
愛媛縣松山市御幸 護國神社萬葉苑上 萬葉熟田津歌碑◎額田王「熟田津に 船乗せむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」
萬葉熟田津歌碑
熟田津承傳地有多說,蓋護國神社近郊額田王歌碑最負盛名。傳齊明帝征途間,暫泊熟田津時額田王詠之。石湯者,道後溫泉。娜大津,宣化紀稱那津。磐瀨行宮,『延喜式』:「筑前國石瀨驛。」
福岡縣朝倉市杷木志波 麻氐良布神社 式內社,祭神伊弉諾尊。
朝倉社 麻氐良布神社
福岡縣朝倉市大字須川長安寺廢寺跡 橘廣庭宮之蹟
朝倉橘廣庭宮跡
太子哀慕獻歌:「欲會與君晤 吾戀汝目欲相見 雖泊雖共居 思慕之情仍難耐 欲會君面晤君顏」
奈良縣高市郡明日香村大字川原 川原寺跡
飛鳥川原宮 川原寺中門跡
飛鳥川原蓋指川原宮。孝德帝亦殯於其故皇居難波宮南庭。
六月,伊勢王いせのおほきみ薨。
秋七月甲午朔丁巳廿四,天皇崩于朝倉宮。
八月甲子朔一,皇太子奉徙うつしまつり天皇喪みも,還至磐瀨宮いはせのみや。
是夕,於朝倉山あさくらのやま上有鬼おに,著大笠おほかさ,臨視喪儀みものよそほひ。眾皆嗟怪あやしぶ。
冬十月癸亥朔己巳七,天皇之喪歸就于海。於是皇太子泊於一所あるところ,哀慕しのひ天皇,乃口號曰:
君きみが目めの 戀こほしきからに 泊はてて居ゐて 斯かくや戀こひむも 君きみが目めを欲ほり
乙酉廿三,天皇之喪,還泊はつ于難波。
十一月壬辰朔戊戌七,以天皇喪殯于飛鳥川原あすかのかはら。自此發哀みねたてまつる,至いたる于九日。
『日本世記』云:十一月,福信所獲唐人續守言しょくしゆげん等,至于筑紫。
或本云:辛酉かのとのとり年,百濟佐平福信所獻唐俘もろこしのとりこ一百六口,居于近江國墾田あふみのくにのはりた。庚申年,既云福信獻唐俘。故今存注おきてしるす,其決さだめ焉。
日本書紀卷廿六 終
【久遠の絆】【卷廿五】【卷廿七】【再臨詔】
日本書紀 卷廿七 天智紀
天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみこと 天智天皇てんちてんわう
一、太子稱制與救援百濟
天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみこと,息長足日廣額おきながたらしひひろぬか天皇太子ひつぎのみこ也。母曰天豐財重日足姬あめとよたからいかしひたらしひめ天皇。
天豐財重日足姬皇極天皇四年,讓位於天萬豐日あめよろづとよひ天皇。立天皇為皇太子ひつぎのみこ。
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