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金村神社
延喜式內社 祀大伴金村
九月乙亥朔己卯五,幸難波祝津宮なにはのはふりつのみや。大伴大連金村、許勢臣稻持こせのおみいなもち、物部大連尾輿等從焉。
天皇問諸臣曰:「幾許いくばく軍卒,伐得新羅?」物部大連尾輿等奏曰:「少許軍卒いくさ,不可易征。曩者男大迹繼體天皇六年,百濟遣使,表請任那上哆唎おこしたり、下哆唎あるしたり、娑陀さだ、牟婁むろ四縣。大伴大連金村,輙たやすく依表請まをし,許賜所求。由是新羅怨曠積年うらみることひさし,不可輕爾たやすく而伐。」
於是,大伴金村居住吉すみのえ宅,稱疾不朝。天皇遣青海夫人勾子あをみのおほとじまがりこ,慰問とぶらふ慇懃。大連怖謝曰:「臣所疾者,非餘事あたしこと也。今諸臣等,謂臣滅任那。故恐怖不朝つかへまるらざりし耳。」乃以鞍馬かざりうま贈使,厚相資敬たすけゐやまふ。青海夫人依實顯奏。詔曰:「久竭忠誠まこと,莫恤うれふる眾口。」遂不為罪,優寵あつくめぐみ彌深。是年也,太歲庚申。
四、五妃采納與皇胤
二年,春三月,納めしいれ五妃。
元妃,皇后弟,曰稚綾姬皇女わかやひめのひめみこ。
是生,石上皇子いそのかみのみこ。
次有皇后弟,曰日影皇女ひかげのひめみこ。【此曰皇后弟,明是檜隈高田天皇女。而列后妃之名,不見母妃姓うぢ與皇女名字みな,不知出何書。後勘者知之。檜隈高田ひのくまのたかた天皇,宣化帝是也。】
是生,倉皇子くらのみこ。
次,蘇我大臣稻目宿禰そがのおほおみいなめのすくね女,曰堅鹽媛きたしひめ。【堅鹽,此云きたし岐拖志。】生七男六女。
其一曰,大兄皇子おほえのみこ。是為橘豐日尊たちばなのとよひのみこと。
其二曰,磐隈皇女いはくまのひめみこ。【更名,夢皇女いめのひめみこ。】初侍祀於伊勢大神いせのおほみかみ,後坐より姧皇子茨城解とかる。
其三曰,臘嘴鳥皇子あとりのみこ。
其四曰,豐御食炊屋姬尊とよみけかしきやひめのみこと。
其五曰,椀子皇子まろこのみこ。
其六曰,大宅皇女おほやけのひめみこ。
其七曰,石上部皇子いそのかみべのみこ。
其八曰,山背皇子やましろのみこ。
其九曰,大伴皇女おほとものひめみこ。
其十曰,櫻井皇子さくらゐのみこ。
其十一曰,肩野皇女かたののひめみこ。
其十二曰,橘本稚皇子たちばなのもとのわかみこ。
其十三曰,舍人皇女とねりのひめみこ。
次,堅鹽媛同母弟,曰小姊君をあねのきみ。生四男一女。
其一曰,茨城皇子うまらきのみこ。
其二曰,葛城皇子かづらきのみこ。
其三曰,埿部穴穗部皇女はしひとのあなほべのひめみこ。
其四曰,埿部穴穗部皇子はしひとのあなほべのみこ。【更名天香子あまつかこ皇子。一書云,更名住迹すみと皇子。】
其五曰,泊瀨部皇子はつせべのみこ。
一書あるふみ云:其一曰茨城皇子。其二曰埿部穴穗部皇女。其三曰埿部穴穗部皇子,更名住迹皇子。其四曰葛城皇子。其五曰泊瀨部皇子。
一書云:其一曰茨城皇子。其二曰住迹皇子。其三曰埿部穴穗部皇女。其四曰埿部穴穗部皇子,更名またのみな天香子。其五曰泊瀨部皇子。
『帝王本紀すめらみことのふみ』,多有古字ふるきみな,撰集之人えらびさだむひと屢經遷易。後人習讀,以意刊改けずりあらため,傳寫既多,遂致舛雜たがひまよふ,前後失次つぎて,兄弟參差あにおととかたたがひ。今則考覈かむがへあなぐる古今,歸其真正。一往ひとたび難識者,且しばらく依一撰,而注詳しるす其異。他皆效ならへ此。
次,春日日抓臣かすがのひつめのおみ女,曰糠子ぬかこ。
生,春日山田皇女かすがのやまだのひめみこ與橘麻呂皇子たちばなのまろのみこ。
欽明帝暨蘇我氏系譜
欽明帝立宣化帝皇女石姬為皇后。復納五妃。皇后妹稚綾姬皇女、日影皇女,蘇我稻目宿禰女堅鹽媛、小姊君,及春日日抓臣女糠子。各有兒息。
京都府京丹後市
穴穗部間人皇后與聖德太子像
皇胤之中橘豐日尊【用明帝】娶埿部穴穗部皇女,產聖德太子。此子篤性佛教,影響甚鉅。詳見推古紀。
任那、新羅、卓淳地緣關係圖
按卓淳、㖨己吞、加羅三國,皆為新羅所滅,而攷其所以,各有其由。卓淳包含貳心,自附內應,由是滅亡。㖨己吞連年遭掠,而任那無能救援,遂而滅亡。加羅國土狹小,不能急備,因而見亡。故知非新羅強盛,乃三國各有內憂矣。加之,昔新羅請援高麗,合攻任那、百濟,尚不剋之。故聖明王斷言新羅難以獨破任那。
夏四月,安羅次旱岐夷吞奚しかんきいとんけい、大不孫だいふそん、久取柔利くすぬり,加羅上首位古殿奚おこししゆゐこでんけい,卒麻旱岐そちまのかんき,散半奚さんはんげ旱岐兒,多羅たら下旱岐夷他あるしかんきいた,斯二岐しにき旱岐兒,子他こた旱岐等,與任那日本府吉備臣やまとのみこともちきびのおみ,【闕名字。】往赴百濟,俱聽詔書みことのりのふみ。百濟聖明王せいめいわう謂任那旱岐等言:「日本天皇やまとのすめらみこと所詔者,全以復建かへしたて任那。今用何策,起建おこしたてむ任那?盍なにぞ各盡忠いさをしき,奉展聖懷みこころ。」
任那旱岐等對曰:「前再三迴みたび,與新羅議。而無答報こたへなかりき。所圖之旨むね,更告新羅,尚無報。今宜俱遣使,往奏天皇。夫建任那者,爰在大王きみ之意。祇承教旨をしへのたまふこと,誰敢間言。然任那境さかひ接新羅,恐致卓淳とくじゅん等禍わざはひ。【等謂㖨己吞、加羅。言卓淳等國,有敗亡やぶるる之禍。】」
聖明王曰:「昔我先祖速古王とほつおやそくこわう、貴首王くゐしゆわう之世,安羅あら、加羅から、卓淳旱岐等,初遣使,相通あひかよはし厚結親好したしきむつび,以為子弟うがら,冀可恒隆。而今被誑あざむかれ新羅,使天皇忿怒いかり,而任那憤恨うらみ,寡人おのれ之過あやまり也。我深懲悔こりくい,而遣下部中佐平かほうしそさへい麻鹵まろ、城方甲背昧奴じやうはうかふはいまな等,赴加羅,會于任那日本府相盟あひちかはしめき。以後繫念相續,圖建任那,旦夕無忘。今天皇詔稱:『速建任那。』由是欲共爾曹なむぢがともがら謨計,樹立任那等國。宜善圖之よくはかるべし。又於任那境,徵召めし新羅,問聽うけたまはらむや與不いなや。乃俱遣使,奏聞まをせしめ天皇,恭つつしみ承示教しめしをしへる。儻如もし使人未還之際,新羅候うかがひ隙,侵逼せめ任那,我當往救。不足為憂。然善守備,謹警つつしみいましめ無忘。別汝所噵いふ,恐致卓淳等禍,非新羅自強故所能為也。其㖨己吞とくことん居加羅與新羅境際さかひ,而被連年とししきり攻敗。任那無能救援,由是見亡ほろぼされる。其南加羅蕞爾狹小ちひさくすこしき,不能卒備にはかにそなふる,不知所託つく,由是見亡。其卓淳上下攜貳かみしもはなれるふたごころあり,主欲自附,內應うちあひす新羅,由是見亡。因斯而觀,三國之敗,良まこと有以ゆゑ也。昔新羅請援たすけ於高麗,而攻擊任那與百濟,尚不剋之かたずありき。新羅安獨滅任那乎?今寡人與汝戮あはせ力並心,翳賴おほひたのまば天皇,任那必起。」因贈物各有差おのもおのもしなあり。忻忻よろこび而還。
六、聖明王,戒慎新羅謀略
秋七月,百濟聞安羅日本府與新羅通計,遣前部奈率鼻利莫古ぜんほうなそちびりまくこ、奈率宣文せんもん、中部ちうほう奈率木刕昧淳もくらまいじゅん、紀臣きのおみ奈率彌麻沙みまさ等,【紀臣奈率者,蓋是紀臣娶韓婦からのをみな所生。因留百濟,為奈率者也。未詳其父。他皆效此。】使于安羅,召到新羅しらきにいたる任那執事つかさ,謨建任那。
別以安羅日本府河內直かふちのあたひ通計新羅,深責罵之せめのる。【『百濟本記くだらほんき』云:「加不至費直かふちのあたひ、阿賢移那斯あけえなし、佐魯麻都さろまつ等。」未詳也。】乃謂任那曰:「昔我先祖速古王、貴首王與故旱岐もとのかんき等,始約和親にきびむつぶること,式もて為兄弟このかみおとと。於是我以汝為子弟こいろど,汝以我為父兄かぞいろね。共事天皇,俱距強敵こはきあた,安國全家,至于今日。言念先祖與舊旱岐もとのかんき和親之詞,有如晈日てるひ。自茲以降,勤修鄰好ちかきよしみ,遂敦與國よくに,恩踰骨肉やから。善始有終,寡人之所恒願。未審いふかし,何緣輕かろがろし用浮辭そらごと,數歲あまたとせ之間,慨然失志!古人云:『追悔無及!』此之謂也。上達雲際おほぞら,下及泉中したつくに,誓神乎今,改咎乎昔,一もはら無隱匿かくししのぶ,發露あらはし所為,精誠通靈かみ,深自克責よくせめむ,亦所宜取。蓋聞:『為人後つぎ者,貴能負荷先軌おやのあと,克昌堂構おやのこと,以成勳業いたはり也。』故今追崇先世さきのよ和親之好,敬順天皇詔敕みことのり之詞,拔取新羅所折へつれる之國南加羅ありひしのから、㖨己吞等,還屬本貫もとのくに,遷實うつしみてて任那,永作父兄,恒朝つかへまつらむ日本。此寡人之所食不甘うまからず味,寢不安やすからざる席。悔往戒今之,所勞想いたはしみおもふ也。夫新羅甘言希誑あざむくをねがふ,天下之所知也。汝等妄信みだりにうけ,既墮人權ひとのはかりこと。方今任那境接新羅,宜常設備,豈能弛柝まぼり?爰恐陷罹おちかかる誣欺網穽あざむくあみあな,喪國亡家,為人繫虜とりこ。寡人念茲,勞想而不能自安矣。竊聞:『任那與新羅,運策席際しきゐのきは,現蜂はち、蛇怪をろちのしるまし。』亦眾所知。且夫妖祥つちのわざはひ所以戒行,災異あめのわざはひ所以悟人。當是,明天あめ告誡つげいましむ,先靈さきのみたま之徵表しるし者也。禍至追悔,滅後思興,孰いづく云及矣。今汝遵余,聽天皇敕,可立任那。何患不成?若欲長存本土もとのくに,永御舊民もとのたみ,其謨在茲。可不慎也。」
聖明王更謂任那日本府曰:「天皇詔稱:『任那若滅,汝則無資よすか。任那若興,汝則有援。今宜興建任那,使如舊日もと,以為汝助,撫養黎民おほみたから。』謹承詔敕,悚懼かしこまりおそる填胸。誓效丹誠あきらけきこころ,冀隆任那。永事天皇,猶如往日むかし。先慮未然ゆくさき,然後康樂やすし。今日本府復能依詔,救助任那,是為天皇,所必褒讚ほめたたへ,汝身所當賞祿たまひもの。又日本卿等まへつきみたち久住任那之國,近接新羅之境。新羅情狀あるかたち,亦是所知。毒害そこなひ任那,謨防ふせかむ日本。其來尚矣ひさしく,匪唯今年。而不敢動者,近羞はぢ百濟,遠恐天皇。誘事をこつりつかへ朝廷,偽和任那。如斯感激はげます任那日本府者,以未禽任那之間,偽示伏從之狀。願今候其間隙ひま,佔其不備,一舉兵而取之。天皇詔敕,勸立南加羅、㖨己吞,非但數十年。而新羅一不聽命,亦卿所知。且夫信敬うけたまはる天皇,為立任那,豈若是乎。恐卿等輙信甘言うまこと,輕被謾語いつはりごと,滅任那國,奉辱はづかしめ天皇。卿其戒之,勿為他欺。」
秋七月,百濟遣紀臣奈率彌麻沙、中部奈率己連これん,來奏下韓あるしからくに任那之政,并上表ふみたてまつる之。
四年,夏四月,百濟紀臣奈率彌麻沙等罷之まかりぬ。
秋九月,百濟聖明王遣前部奈率真牟貴文しんむくゐもん、護德己州己婁ごとくこつこる與物部施德麻哿牟もののべのせとくまがむ等,來獻扶南ふなむ財物與奴二口。
韓忠清南道扶余郡扶余邑 聖王像
百濟聖明王像
百濟官位表
十六官品、定員、冠帶者,見記於周書。日本書紀所誌官名或有異。
Asian Art Museum of San Francisco藏「八幡大菩薩御緣起繪卷」
八幡大菩薩御緣起繪卷
新羅王素旆自服,素組面縛,封圖籍而降之。高麗、百濟聞新羅降於日本,自來營外,叩頭而款。故定內官家,是所謂三韓也。此任那諸國日本府之起也。
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