鲁虺日本人文搜索
输入关键词:
类目资源: 智虺堂 検索 典故 古語辞典 大辞林 日漢雙解詞典 日本傳統色 utf-8 康熙字典 汉语词典 毒鸡汤 谜语 名言 解梦 谚语 古籍溯源 异体字 大辞海 制度 语言翻译

鲁虺日本人文搜索说明

日本人文書紀。


鲁虺日本人文搜索。


推荐日本人文搜索60个。
 二年,立為皇后きさき。皇后從始迄今,佐たすけ天皇定天下あめのした。每於侍執つかまつり之際,輙すなはち言及政事まつりごと,多所毘補たすけ。  朱鳥あかみとり元年,九月戊戌朔丙午九,天渟中原瀛真人天武天皇崩かむあがり。皇后臨朝稱制みかどまつりごときこしめす。 二、大津皇子事件
 冬十月戊辰朔己巳二,皇子みこ大津謀反發覺あらはれぬ。  逮捕からめ皇子大津おほつ,并捕為皇子大津所詿誤あざむかえたる直廣肆ぢきくわうし八口朝臣音橿やくちのあそみおとかし、小山下せうせんげ壹伎連博德いきのむらじはかとこ,與大舍人おほとねり中臣朝臣臣麻呂なかとみのあそみおみまろ、巨勢朝臣多益須こせのあそみたやす、新羅しらき沙門行心かうじむ及帳內とねり礪杵道作ときのみちつくり等,三十餘人。  庚午三,賜死みまからしむ皇子大津於譯語田舍をさたのいへ。時年とし二十四。
 妃皇女山邊やまのへ被髮かみをみだし徒跣すあし,奔赴はしりゆき殉焉ともにみまかる。見者皆歔欷すすりなく。  皇子大津,天渟中原瀛真人天武天皇第三子也。容止みかほ墻岸たかくさがしく,音辭みことば俊朗すぐれあきらか,為天命開別天智天皇所愛めぐまれ。及長ひととなる,辨わきわきしく有才學かど,尤もとも愛文筆ふみつくる。詩賦ふみ之興おこり,自大津始也はじまれり。  丙申廿九,詔みことのり曰:「皇子大津謀反みかどかたぶけむ。詿誤吏民つかさひと、帳內不得已やむことえず。今皇子大津已滅すでにほろびぬ,從者ともびと當坐かかれる皇子大津者,皆赦之ゆるす。但ただし礪杵道作流ながせ伊豆いづ。」又詔曰のたまはく:「新羅沙門行心與くみせ皇子大津謀反,朕われ不忍しのびず加法つみする。徙うつせ飛驒ひだ國伽藍てら。」
 十一月丁酉朔壬子十六,奉つかへまつれる伊勢神祠いせのかみのまつり皇女大來おほく,還至京師みやこ。  癸丑十七,地震なゐふる。  十二月丁卯朔乙酉十九,奉為おほみため天渟中原瀛真人天武天皇,設無遮大會かぎりなきおがみ於五寺いつつのてら─大官だいくわん、飛鳥あすか、川原かはら、小墾田豐浦をはりたのとゆら、坂田さかた。
 壬辰廿六,賜たまふ京師孤獨ひとりひと、高年としたかきひと,布ぬの、帛きぬ各有差しなあり。  閏うるふ十二月,筑紫つくし大宰おほみこともち獻三國みつのくに─高麗こま、百濟くだら、新羅百姓おほみたから男女并僧尼ほふしあま六十二人。  是歲このとし,蛇をろち犬いぬ相交つるめり,俄しばらく而俱死ともにしぬ。
奈良縣奈良市西京町 藥師寺 傳大津皇子像 藥師寺藏 大津皇子像 『懷風藻』:「狀貌魁梧,器宇峻遠。幼好學博覽能屬文,壯愛武多力能擊劍。性放蕩,不拘法度降節禮士,人多附託。新羅僧行心解天文卜筮:『太子骨法非人臣之相,久在下位恐不全身!』因進逆謀,迷此詿誤,遂圖不軌。鳴呼惜哉!蘊彼良才,不以忠孝保身,近此奸豎,卒以戮辱自終。古人慎交遊之意,因以深哉。時年廿四。」
三重縣多氣郡明和町 伊勢齋宮跡 大來皇女萬葉歌碑※【大津皇子竊下於伊勢神宮還上時,大伯皇女御作歌】 我が背子を 大和へ遣ると 小夜更けて 曉露に 我が立濡れし※大伯皇女、大津皇子,同胞姊弟,蓋當姬彥制歟。※齋王退下,分吉、凶事。平安朝後,如遇天皇退位,行鈴鹿峠、近江路歸京,同群行往路。如遇凶事,行伊賀、大和路歸京。并禊于難波津而經河陽宮入京。 伊勢齋宮跡 大來皇女萬葉歌碑 齋宮大來皇女退下,或因坐大津皇子謀反,或緣天武帝崩,并凶事。
京都府京都市左京區下鴨泉川町 賀茂御祖神社 下鴨神社 葵祭 采女。 賀茂御祖神社 葵祭 采女 『養老』後宮職員令膳司:「膳司/尚膳一人。【掌知御膳進食先嘗。惣攝膳羞、酒醴、諸餅蔬菓之事。】典膳二人,掌膳四人,采女六十人。」
常陸國,今茨城縣北東一帶。下總國,今千葉縣北部。 常陸、下總國郡圖 『續日本紀』靈龜二年五月:「以駿河、甲裴、相模、上總、下總、常陸、下野七國高麗人千七百九十九人遷武藏國,始置高麗郡。」是知投化高麗人等後遷武藏。『後漢書』光武帝紀:「給稟高年鰥寡孤獨及篤癃無家屬貧不能自存者。」又云:「賦田受稟,使安生業。」『說文』:「稟,賜榖也。」
華縵 華鬘 華縵 御蔭 華縵、御蔭,頭戴髮飾之謂,此蓋為莊嚴殯宮之華鬘歟。
龍象壺瓶 龍象壺瓶 龍象,『潛確居類書』:「佛法曰之。智度論曰:『水行之中,龍力為大;陸行之中,象力為大。』故負荷大法者,比為龍象。」是以龍象大德,諭高僧也。
奈良県高市郡明日香村 野口王墓 天武、持統天皇 檜隈大內陵 天武、持統帝 檜隈大內陵 奈良県高市郡明日香村 野口王墓 天武、持統天皇 檜隈大內陵
大內陵 墳丘、橫口式石槨 奈良県高市郡明日香村 野口王墓 天武、持統天皇 檜隈大內陵※徑約五十米,石室全長七點五米 天武、持統帝 檜隈大內陵
『延喜式』諸陵:「檜隈大內陵,在大和國高市郡。兆域東西五町,南北四町。陵戶,五煙。」『墓陵要覽』:「高市郡明日香村大字野口。」嘉禎三年,遭盜掘。故時頃書物『明月記』、『阿不幾之山陵記』等,載其陵規模。墳丘八角,玄室壁塗以朱紅,天武帝遺骸納夾紵棺中。持統帝歿,火葬,遂合葬其陵。 香川縣三豐市高瀨町羽方 讃岐國二宮 大水上神社 雨乞神事遺跡 鰻淵 竜王淵 大水上神社 雨乞神事跡 竜王淵
不崇朝,午前也。『毛詩』蝃蝀:「朝隮于西,崇朝其雨。」傳:「崇,終也。從至食時為終朝。」  元年,春正月丙寅朔一,皇太子ひつぎのみこ率公卿まへつきみ、百寮ももつかさ人等,適殯宮もがりのみや而慟哭みね焉。  納言ものまをしつかさ布勢朝臣御主人ふせのあそみみあるじ誄之。禮ゐや也。誄しのひことたてまつる畢,眾庶もろびと發哀。次,梵眾ほふしたち發哀。於是,奉膳うちのかしはでのつかさ紀朝臣真人きのあそみまひと等奉奠みけたてまつる。奠畢をへ,膳部かしはで、采女うねめ等發哀みね。樂官うたまひのつかさ奏樂うたまひつかへまつる。
 庚午五,皇太子率ゐて公卿、百寮人等,適まゐで殯宮而慟哭焉。梵眾隨したがひ而發哀。  庚辰十五,賜京師年自八十以上かみつかた及篤癃やまひあつきひと,貧まづし不能自存わたらふこと者,絁あしきぬ、綿わた各有差。  甲申十九,使直廣肆田中朝臣法麻呂たなかのあそみのりまろ與追大貳ついだいに守君苅田もりのきみかりた等,使於新羅,赴つげしむ天皇喪みも。
 三月乙丑朔己卯十五,以投化おのづからまゐおもぶけり高麗五十六人,居于常陸ひたち國,賦田受稟たたまひかてたまひ,使安生業なりはひ。  甲申廿,以華縵はなかづら,進たてまつる于殯宮。此曰御蔭みかげ。是日,丹比真人麻呂たぢひのまひとまろ誄之。禮也。  丙戌廿二,以投化新羅十四人,居于下毛野しもつけの國。賦田受稟,使安やすからしめ生業。
 夏四月甲午朔癸卯十,筑紫大宰獻たてまつる投化新羅僧尼及百姓男女をのこめのこ二十二人。居はべらしむ于武藏むざし國,賦田受稟,使安生業なりはひ。  五月甲子朔乙酉廿二,皇太子率公卿、百寮人等,適殯宮而慟哭焉。於是隼人はやひと大隅おほすみ、阿多あた魁帥ひとごのかみ,各領ひきゐて己眾ともがら,互たがひ進誄焉。  六月癸巳朔庚申廿八,赦罪人つみひと。
 秋七月癸亥朔甲子二,詔曰:「凡負債者もののかひおへるもの,自乙酉十四年以前さき物,莫收利このしろ也。若既すでに役身み者,不得役つかふ利。」  辛未九,賞賜ものたまふ隼人大隅、阿多魁帥等三百三十七人。各有差。  八月壬辰朔丙申五,嘗みけたてまつる于殯宮。此曰御青飯あをきおものあてまつる也。
 丁酉六,京城みやこ耆老おいたるひと、男女,皆臨のぞみ慟哭於橋西はしのにし。  己未廿八,天皇使直大肆ぢきだいし藤原朝臣大嶋ふぢはらのあそみおほしま、直大肆黃書連大伴きふみのむらじおほとも,請集ませつどへ三百龍象大德おこしきほふし等於飛鳥寺あすかでら,奉施おくりたてまつり袈裟けさ。人別ひとごと一領りやう。曰:「此以天渟中原瀛真人天武天皇御服みそ所縫作ぬひつくれる也。」詔詞みことのりのことば酸割からくいたし,不可具陳つぶさにのぶべからず。  九月壬戌朔庚午九,設國忌齋こくきのおがみ於京師諸寺。
分页:首页 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 上一页 下一页 尾页